8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
上井(うわい)・下井(したい) いまむかし 4


4、不発に終わった「湯沢計画」

「湯沢計画」と源氏原、八幡原、釜取原、善込の開発
  東伊那の水問題は、東伊那総合開発委員会をはじめ、いろいろなところで論議されていますが、住民にとってこれは重大な問題であります。
  私は、昭和48年9月の定例市議会において、天竜川東(竜東りゅうとう、とも言う)の水問題を根本的に解決するために、小渋川や三峰川から水を取り、中沢の大洞地域へ多目的ダムを建設してはどうかと提案しました。
  この多目的ダムの建設は、竜東の水問題解決の一つの方法であると思われますし、また天竜川からのポンプアップも名案であります。
  火山の人たちによる「火山を語る会」の中で、「東伊那の水問題を解決するために、トンネルを掘って山の向こうの中沢大曽倉の水をこちらへ持ってくることを考えたらどうか」という話が出ました。
  これと同じアイデアによるところの計画が、いまから122年前に立案され、計画書(設計書)もでき、その実現のための住民の運動もおこりました。
  下井が起工される前年(嘉永6年12月、1853)ペリーが日本の開国を求めるアメリカ大統領の親書をたずさえ、軍艦4隻をひきいてきたのは、同年6月のことです。
  湯沢曽右衛門氏が中心となり、塩田村・大久保村とが一体となって、高遠藩に対して「許可ねがい」が出されました。
  計画によりますと、大曽倉村の「入会山」(いりあいやま、現在市営の大曽倉牧場となっている“上手共有林”付近)のうちの「新山峠の下」のみずと、「沢ざみ」の水がとても豊富にあるので、この水を山越しに井筋をつくって東伊那の方へ持ってこようという計画でありました。
  そして、東伊那へ持ってきた水は、火山村内の源氏原や八幡原、さらに鎌取原、善込など、現在でも水がなくて開田できずに原野や畑となっている地域を開田しようと考えたのです。
  また、栗林村・塩田村・大久保村も、もっと開田しようという計画でした。
  この「湯沢計画」が実際に実現可能であったのかどうか、私は地図であたってみました。
  まず、地形上・技術上建設は可能かということですが、これについてみれば、トンネルを東山に掘らなくても、山を巻き回せば東伊那の側に水を流すことはできます。
  たとえトンネルを掘ったとしても、短いもので良いことがわかります。(地図Dの地点で300m弱の延長でよい)
  さらに水量はあるのかということですが、2つの水源は今日においても比較的豊富で安定した水源です。(地図A・B・Cの川の水)
  この計画は今日考えて見ましても、まったく画期的なものでありました。


  上戸・中条、田用水 (あがと、なかじょう、たようすい)

  この湯沢計画ににたものに、「伊那節のふるさと」と言われている、伊那市西箕輪与地の「田用水」があります。
  与地の井水は、権兵衛峠をこえて木曽の側から、かなりの量の水を持ってきております。
  この用水について、西箕輪羽広の鈴木亀春さん(伊那市会議員であり、前副議長として、また共産党議員団長として活躍している人)の話によりますと・・・、上井・下井と同様に西箕輪は昔から水のないところでありますので、ここでも血と汗と涙を流した貴重な歴史があります。
  それに「田用水」の井筋の維持管理も大変で、しょっちゅう災害が起き、用水が破壊されて困っていたそうであります。
  昭和39年の災害の時、いたるところで井筋が寸断されたために、国の災害復旧の査定をうけ、流域変更をし約9200万円をかけて権兵衛峠にトンネルを掘り、現在はそれによって木曽側から水を持ってきているそうであります。

井筋の名称 上戸・中条田用水
取水 木曽側の「奈良井川」の支流「白川」より、日本海へ流れる水を持ってきている。
延長 約16q。木曽側から権兵衛峠までは12q、それに峠から上戸まで4qある。トンネルを掘ったことにより、現在では白川よりトンネル入り口まで1550mに短縮された。
灌漑面積 25.5町歩。
関係部落 伊那市西箕輪上戸・中条
起工と完成 江戸時代より伊那側から井筋を切り開いていたが、明治8年筑摩県当時、松本市の奈良井川土地改良組合と調印している。
水利費 1反当たり、年間9000円。坪当たり30円。


  このトンネルの長さは、964mあります。
  トンネルができる前は、権兵衛峠をまいて伊那側に入り、小沢川の支流北沢川に落とし、そこには「水ます」が設置してあって、北から南に流れている北沢川の上戸・中条の地籍で同量の水を使用していました。
  現在は、トンネルによって小沢川の南沢地籍(南沢鉱泉の上方)に落とし、河川を利用して同量の水を南から引水しております。
  このトンネルは、昭和46年に完成していますが、当時伊那市議会経済委員長であった鈴木さんは、トンネルを木曽側と伊那側の両方から掘り進んで、最後の発破をかけて穴が開いたときに、その現場で「記念の握手」をしたと想い出を話してくれました。
  トンネルの完成したときに、小沢川の水利関係者と臨時的に“水利協定”をしたそうですが、これが現在いろいろと問題が起こって、伊那市の理事者は頭を抱えているとのことであります。

   <メモ>

     権兵衛峠
  《米を求めて》
  木曽は昔からお米の乏しいところ。木曽路11宿をひかえており、旅人の用にも事欠くありさまだった。美濃や松本平から取り寄せ、さらに木曽山脈の北の牛頸峠、南の大平峠・清内路峠を通って伊那の米も入れなければならなかった。
  そこで、人の背により運搬がかろうじてできた、鍋懸け峠の道を改修して、人馬の通じる道にし、伊那の米を木曽へ運ぼうとした。木曽宮野越村神谷の牛方、古畑権兵衛は、11宿の役人とともに伊那側の村役人を説得し、木曽の山村代官を動かし、ついにこの峠道の開通に成功した。
  時に、元禄9年(1696)。宮野越から神谷を経て姥神峠を越え、羽淵、それから奈良井川の谷に沿ってのぼり、番所から萱ヶ平をへて峠の頂(1622m)、
それから伊那側の北沢へ下り、やがて平沢、小沢をへて伊那街道の伊那部宿に達する。
  この峠道の開通により、木曽と伊那との人馬の往来が自由になり、物資の交流が盛んになっていった。それとともにだれ言うとなくこの峠を「権兵衛街道」と よぶようになった。

   《木曽へ木曽へと》
  峠道の開削に最初は消極的であった高遠藩は、木曽の商人などからの借入金の返済に、年貢米を平沢、小沢、横山あたりの山麓の村々にいいつけて、今の12月、1月という寒い時に送らせた。4斗俵では山道のため馬に重すぎるので、3斗3升か3斗5升入りの軽くした俵を馬に2俵ずつつけ、その馬を一人が2頭ずつ追い、3〜4人がひと組となって峠を越すのであった。朝早く出かけ、神谷の問屋へ荷を下ろし、その日のうちに帰ってくるのは、なかなかの仕事であった。
    ・・木曽へ木曽へと つけ出す米は 伊那や高遠の 涙米・・
       涙米とは そりゃ情けない 伊那や高遠の あまり米
  伊那節に唄われますように、一年中汗を流してやっと収穫したものを、年貢に納めなければならない、文字通りの「涙米」。しかし、そう唄っては身に沁み、情けなくなるので、景気よく「余り米」と唄って、われとわが身をなぐさめたのである。
     ・・木曽へ木曽へと つけ出す米は 伊那や高遠の お蔵米
  明治の世となると、やや誇らしげに、高遠の殿様の「お蔵米」なんだよと唄うように変わって行ったのはほほえましい。



  さて、この湯沢計画は、2つの理由から結局“不発”に終わってしまい、実現されませんでした。
  その理由に一つは、高遠藩からの問題でした。
  それは「計画は結構だが、あえてやれば藩財政に大きな支障をきたす」高遠藩の経済力・財政力がとてもかなわない。あえてこれを実行すれば、莫大な費用がかかるということで、ついに実行に移されることなく不発に終わったのであります。
  この計画は、標高1000m〜1100mの山の上の仕事であり、すべて人海戦術の頼らざるを得ない状況であり、労力と工事費の問題と収入との兼ね合いから、ついに日の目を見る事ができませんでした。
  いま一つの問題は、最初に藩に対して許可の願いが出された時点、嘉永6年のときには、水を東伊那に持ってくることに、塩田村、大久保村はもとより、ほかの村も賛成していたのであります。
  計画が成功すれば、水のない東伊那に水が来て、広い畑作地帯を開田することができるということで、意見は一致していました。しかし、計画の全貌が明らかになり、その利点・欠点が明らかにされ、「争論」されるなかで、ついにこの源氏原開発に対して、“反対の嘆願書”が、最初の許可ねがいから5年後に、塩田村、栗林村から出されるに及んで、この話はついにご破算となりました。
  その反対の理由に、源氏原の「入会権」の問題をはじめ、水利問題などの調整がつかずに、ご破算となったのです。
  この「湯沢計画」は、結局実現されませんでしたが、いま東伊那の「水」問題を論じるときに、これほどまでの努力をしてでも、水を確保しようとした祖先の人々の努力と熱意にたいして、大いに敬意を表し、また水の重要性、水を守るということがいかに大切であるかということを、私たちに教えてくれているのであります。




  <メモ>
 源氏原の開拓に最初に入植したのは、塩田村の「馬場忠弥」氏であります。
 この“忠弥”氏は、内藤藩の筆頭家老の「岡野小平治」の後妻になった人、また湯沢曽右衛門氏の妻と兄弟姉妹でありました。
 忠弥氏は、高遠藩主並びに岡野小平治から「武蔵野へ行け」(現在の新宿あたり)と土地まで提供されました。けれども、どのような理由かわかりませんが、内藤新宿へ行かずに火山村の“源氏原”へ開拓に入ったのです。

  内藤新宿について
  元禄4年(1691)、内藤清枚氏が高遠領主を命じられて入封しました。
  (徳川家康は、天正18年・1590、豊臣秀吉によって関東へ移封)
  清枚氏の3代前の「清成」氏の時代、家康が関東へ移ってから、鷹狩りした際に、「清成」氏が馬術に長じたることを家康が聞き、一時(いっとき、2時間)に「千代田城を出て、乗り回した土地を内藤氏に与える」・・と沙汰があり、ただちに乗り廻して家康から拝領した土地が、内藤新宿20余万坪でした。
  現在でも、東京の新宿には「内藤町」というところがあります。


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