8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
上井(うわい)・下井(したい) いまむかし 5


5、維持管理今昔・いまむかし

  “分離金一円也・とやぶはらじょうばん”の74年
   − 八ヶ議定書 −
  江戸時代の嘉永年間に2つの井筋ができてから、今日までの120余年の間、毎年毎年苦労して井筋の維持管理が行われてきました。
  上井の水利についてみますと、農業用水としては、春の彼岸から秋の彼岸までの、その期間は60人の関係者がその管理にあたっています。
(実際には、伊那と栗林の水田関係者が、4月下旬より8月末日まで通水している)
  その他の期間も中曽倉・本曽倉・原・伊那耕地は生活用水として、また防火用水としても通水しております。
  その中でも伊那耕地は、9月より4月までは耕地全戸の用水として多額の費用をかけて通水しており、そしてその間の管理責任は伊那耕地の区長があたっております。
  (冬の期間に起きた、取り入れ口から伊那耕地までの井筋の災害は、伊那地区の負担となっているのです。)
  井筋の延長がきわめて長いうえに、取り入れ口と井筋の末尾との高低差がたった60mというように、きわめてゆるやかであるという条件、さらには井筋の土質が悪いという事もあって、管理には毎日のように見回りなど人手を要する状態であります。
  上井の受益面積は、実際には水田が50町歩以上といわれていますが、この10qにおよぶ井筋の維持と管理は、東伊那に井筋を開設した嘉永2年のときの約束もあって、上井完成によって開田された伊那の8町歩と栗林の5町歩、合計13町歩の人達、60人がやっている状態です。
  上井のできる以前にあった田地を「古田」こでんといいますが、この分については維持と管理の負担は何も負わなくてよいということになっております。
  60人の関係者が毎日交代で、取り入れ口までの2里半の道のりを見て歩くということは大変なことです。雨の日も嵐の日も江戸時代から守り続けてきたのです。
  いまではバイクや自動車が普及していますが、それで取り入れ口まで行って「見てくる」ということがあるのではと心配されますが、実際はそれが出来ない仕組みになっているのです。
  井筋の道中には、毎日どうしても見なければならない重要な場所が何カ所かあり、そこには「木札」をかける場所がもうけられていて、毎日、木札を掛けてきたり、次の日はそれをはずしてきて、翌日の係りの人に渡す仕組みで、“さぼる”ことができないようになっています。
  ここには、長い年月の中での生活の知恵を見ることができます。
  また、夕立ちなどで大量の水が新宮川に出たときには、日中の仕事中であろうとも、又夜中であっても、取り入れ口まで行って水を止めてくるなどの作業をしなければならない事になっております。
  これらの仕事を、休みなく続けるということは大変なことでありますし、やらなければなりません。
  10q余の井筋の修理にしても、江戸時代に井をつくった時の条件で、中沢の中曽倉、本曽倉(原は分村)の部落の人たちは、必要なだけ自由に水を使ってもよいことになっているうえに、水路の改修費は中沢の受益者は何も負担しなくてよいということ、さらに、東伊那地域の「古田」は負担する必要はなく、すべて嘉永元年以後に開田した、あわせて13町歩の人たちのみが負担することになっております。
  上井筋における中沢と東伊那の関係については、すべて嘉永元年に結ばれた「八ヶ議定書」に定められたことであり、「水利権」でありますので、一見不合理に思えますがそれをどうすることもできません。
  今日考えれば、不合理な慣習であり、上井の水問題は今後いろいろな角度から、時代の進展も含めて研究され、論議されて円満な解決の方途も見つけ出されるでありましょう。 
  昨年も竜東の市営水道が出ないときが何日かありました。
  それは「水量がたりない」ということが根本問題で、何とかして量を増やすことをしなければなりません。
  そのためには、他地域から水を持ってくることであります。
  それは可能でしょうか?。技術的には可能であります。必要なことは、竜東の問題を的確に把握し、住民が団結して要求を運動に盛り上げることであり、同時に市・県・国の目をそこに向け、具体的に調査に着手させることです。
  私はそれらの点で竜東のすべての皆さんとともに、その先頭に立ち、働いてゆく決意を固めております。
  そして、それこそが多目的ダムの実現、天竜川からのポンプアップ、竜東全域の土地改良(水路、基盤整備)などによって、前近代的な、江戸時代の遺物である「上井の水利権の問題」は民主的に解決することができるのです。
  ちなみに上井の水利費は、昭和47年度は(13町歩のみについて)坪当たり14円50銭、1反当たり4750円でありました。・・・これは、伊那耕地の上の原の「やぶはらじょうばん」のところまでの分であり、栗林の関係者はさらに負担がかかり、約1反当、たり2万円になります。
  今日稲作の減反ということで、休耕田も増えてきておりますが、水の使用量は減るどころか、かえって今までより多く使われ、井筋の末尾では以前より状況は悪くなっているのが実態です。
  それは、上流の曽倉地区などで休耕田に鯉などを飼うようになり、水は余計に使われるためです。


    《 やぶはらじょうばん 》 藪原定盤(板)
  上井の維持管理に人手と経費が多くかかる事については先ほどもふれましたが、今から70余年前の明治34年の時に、伊那耕地上の原の「やぶはらじょうばん」で、上井を栗林まで行く井筋と、伊那耕地で使う井筋との2つの井筋に分けたのであります。
  新宮川の取り入れ口からこの「やぶはらじょうばん」までは、「伊那・栗林の上井筋関係者」の共同管理でありますが、ここからは別れた井筋をそれぞれが管理することになり、伊那の関係者から栗林の関係者にたいして、「お見舞い金」として、当時の金で「1円」を支払ったのであります。(井筋2本に分ける以前は、伊那・栗林の関係者全員で共同して、栗林の井尻まで管理をしていたのです。)
  その約束は、額面どおり、74年たった今日でも守り続けられており、毎年12月の決算(割)のときに、“金・1円也”を伊那から栗林の関係者に渡しております。
  明治34年の1円が今どのくらいにあたいするのでしょうか?。
  物価指数からみますと、(資料B参照)米の価格は1565倍であり、それは、\1565円に相当するわけであります。また「総合的卸物価指数」から見た場合には、846倍となっております。
  このように“金・かねの価値”は大きく変動しておりますが、この74年間、両部落の関係書類には、「壱円なり」の「支払」と「支出」記され続けて今日にいたっております。
  昭和の中頃までは「壱円」の問題はおこらずに来たそうでありますが、戦後貨幣価値も変化し、いまでは物価の急上昇の折柄、約束の「壱円」を現在にマッチした金額に引き上げてほしい、との栗林側からの強い要望も出され、また話し合いもなされて来ているわけですが、結局、約束の「壱円」を変えることなく今日に至り、昭和47年の話し合いで、「今後、春・夏の井ざらいにおいて、半日の労力を栗林へ提供する」ということで一応解決しております。“基準は酒1升”ということでありますが、「酒では名分が通らない」という意見もでて、労働力の提供ということになったのです。
  分離金・壱円也については、日本国に“壱円”という貨幣の単位がある限り、また根本的な解決がなされるまで続けられてゆくことでしょう。
  現在日本政府で、デノミネーションの話がだされています。そうなれば又この「壱円」も貴いものとなるかもしれません。(伊那耕地においては、昔は上井・下井は共同の管理がなされていました。しかし、上井に金も労力もより多くかかったために、下井の人たちから強力な意見が出され、耕地の管理から、受益者管理に移され、結局、上井・下井のそれぞれに分かれたのです。それは今から約60年前の話であります。

  <日本銀行松本支店調査> 総合的卸売物価指数からみた場合
昭和 9年〜11年を平均1とすると、 明治34年は 0.469
昭和46年は 397.2 昭和48÷明治34=846倍、\846円となる。


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