8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
上井(うわい)・下井(したい) いまむかし 3


3、上井建設苦労譚(はなし)

  さて、上井と下井は誰が中心となってできたのでしょうか。
  上井の設計者は、塩田下塩田の屋号「中村」湯沢曽衛蔵氏より3代前の「曽右衛門」氏であります。
  この「曽右衛門」氏が、上井起工1年前の弘化4年8月17日(1847)、高遠藩から「中沢郷の新田開発世話役を申しつ付く」というお墨付き(任命)を受けて、設計と監督にあたりました。
  伝えられる話によりますと、当時の高遠藩の“文武総裁”・・いわゆる内藤領主のもとでの家来の最高責任者・筆頭家老は、岡野小平治というひとでした。(当時、高遠藩には500人の侍がいた)
  この岡野小平治の奥さんは、湯沢氏の奥さんと姉妹であったといわれています。つまり、岡野小平治と湯沢曽右衛門氏は義兄弟であったのです。
  岡野氏の妻となった人は、塩田上塩田で生まれた人で(私の近所)この人がなぜ、どのようにして岡野氏のもとへ嫁いだのか、ただいま調査中でありますが、現在までに分かったことは、この女の人は「再婚」したという事実であります。

  調査の結果は、私のホームページ<赤須喜久雄・憲法9条をまもる、平和をまもる>の中の、8、のDの3、のB「お前の女房を俺にくれ」郡代・岡野小平治の逸話。でふれていますので参照ください)

  そしてまた、後で述べますが「不発に終わった湯沢計画」と「火山村源氏原」の開発のために最初に入植した“馬場忠弥氏”とも深い関係があります。
  こんな関係もあってのことかどうか定かではありませんが、“湯沢曽右衛門”氏が藩のお墨付きをうけたのです。
  お墨付きをもらってから半年後、嘉永元年2月には、高遠藩士「後藤新左衛門」が井筋予定地を見分しております。
  さらに、同年4月には井筋の水盛り帳ができたと記録されています。
  ここでちょっと横道にそれますが、唐沢市作・上伊那誌には下井の工事関係者とされている・・氏について少し明らかにしておきたいと思います。
  唐沢市作氏は、文化9年(1812)に生まれております。そして幕末に岡野小平治に重用され、藩から名字帯刀を許され「稲沢」という姓をもらっています。(現在子孫は東京にいる)
  市作氏は、慶應4年正月10日、入野谷郷で政敵によって毒饅頭をくわせられ、毒殺されています。彼は苦しい腹をかかえながら火山峠をこえ、自宅までたどり着いたといわれていますが、ついにこときれ、享年56才でありました。
  話をもとにもどします。
  この雄大な構想は、設計の段階から苦労がたくさんありました。
  水の流れを見るために水平をはかる道具といえば、当時はろくな器械もあいませんでしたので、夜暗くなってから計画路線に提灯やたいまつを持って立ち、それを川向うの赤穂の方からお盆に水を張って水平を見、馬を飛ばして高低の位置の変更などをしたわけです。
  これには多くの労力と費用がかかっただろうと推察できます。
  また、さらにいざ工事に取り組んでからも、大変な苦労がありました。
  現在上井の総延長は、2里半〜3里。10キロから12キロあります。当時はそれに加えて大久保まで約1里。合わせて3里半〜4里もありました。
  上井の取り入れ口地点の標高は700mでありますが、現在、井尻となっている細田北の標高は640mですので、その差はわずかに60mであります。
  延長2里半(10q)に60mの高低差ということは、技術的にみましても、それにコンクリートもない、今から120余年前の時点での仕事である、という面から見ましても、当時の人々の苦労が大変しのばれるのであります。


  <メモ>  治水・利水の歴史

 流水が一定の河川を流れるようになるためには、人間は数千年にわたって流水を固定する、すなわち水の道をつくる労働を加えてきた。
 その結果として、いかだや舟運に、水車をまわす動力に、あるいは灌漑用水を引くにも、自然のまま勝手に流れている場合にくらべて利用しやすくなったのである。
 この流れの道をつくる人間の働きかけが、治水といわれたのである。治水は、社会の生産力が高まり、水を生産に利用する必要が起こると、自然を用水に変える人間労働と密接に結びつ言ってくる。
 まず勝手に流れている水が、ほぼ一定の道を流れるようになると、その付近に農業が発達してくる。その過程で、自然に流れている水は、堰をつくって水路に引き入れられ、灌漑につかわれるようになってくる。(日本の灌漑では、河川を利用する前にため池が利用されていた。)
  農業が発達するにつれて、とくに現物で租税が徴収されるようになると、農産物の運搬が日程にのぼってくる。同時にまた、穀物を搗くことや、製粉に水車が利用されるようにもなる。

@ 仁徳天皇(313〜400)の「まんだ堤の築堤」。「称徳記」に天平2年(758)に鬼怒川を掘り防ぐことを願い出て許可。延暦4年(785)「淀川末流の放水路の掘削」、「大和川付け替え工事」・・などは、乱流を一定の道に治める工事であったといえる。
A 大化の改新(646)で、班田収授の法を定め、租税徴収の法を定めたことは、農業の生産力が発展したことを示すものである。またこの班田収授法による口分田は条理制を基礎にして実施されるが、その条理制が、河川沿岸の沖積地で発達したことは、すでに流水の道がかなり固定されたことを示すものである。
B 河内(大阪府)大和(奈良県)のため池には、大化の改新以前につくられたものが相当あり、有名な香川県の「満濃池」も、大化の改新後のすぐあと(701)に造られている。河川からの用水取入れで記録に残っている最古のものは、和銅元年(708)の熊本県白川筋瀬田下井手堰である。
C 川が舟運に使われた記録は古いが、道として積極的に改造されるようになるには、大化の改新からさらに約1000年を要している。
  大化の改新ころの耕地面積は約80万町歩、川が改造されるようになる1600年ころには、耕地面積は約160万町歩と推定される。
  文禄3年(1594)、兵庫県の加古川が阿江与右衛門によって、また慶長11年(1606)保津川の急流が「角倉了以」によって改造されたのが、川の大きな改造の始まりであろう。
D

明治以前の治水は、舟運や灌漑と切ってもきれぬ関係にあることは、藩庁の水奉行が、治水、利水を一体的に総理したことであるし、武田信玄、加藤清正などの治水が、つねに利水と結合して実施されていたことでも証明されるであろう。

(佐藤武夫著、水利経済論より)




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