8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
上井(うわい)・下井(したい) いまむかし 1


  みなさん、おつかれさまでございます。


  今夜は、私たちの祖先がどのようにこの地域で生活してきたのか、江戸時代の末期から明治初期にかけての村々の様子、それに人口の動きや生産力の変化など、東伊那にとってはとりわけ問題の大きい「水」の問題を中心にお話しするわけでございますが、何分にも今から100年以上も昔の話でありますので、その当時の時代考証が不正確の面もあろうかと思います。
  思い違いや、私の知らないいろいろな話もたくさんあることと思いますので、私の話の途中でも結構でございますから、皆様方にご指摘いただきまして一緒になって考えてみたいと思いますのでよろしくお願い致します。
  今夜はとても冷え込んでおりますが、炬燵には炭をたくさん入れてありますので、熱いお茶を飲みながら、そして大根漬やお葉漬けを食べながら、気楽に話を聞いていただきたいと思います。



1、上井と下井

  うわいしたい、この2本の井筋は一級河川新宮川の上井は落合より、下井は中沢の中割より取水し、東伊那の耕地、とりわけ伊那と栗林の2つの部落をうるおし、この地域の農業生産と日常生活にとって、それは欠くことのできない生命線となっております。

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  この「井筋」がつくられたのは、今からどのくらい昔のいつ頃の時代であったのでしょうか?
  それは、およそ120余年前の江戸時代末期、幕末の嘉永年間に造られたのであります。明治維新よりちょうど20年前です。嘉永元年(1848)上井は起工され、次の年に完成しています。
  また、下井はそれから6年後の嘉永7年に着工されています。
  この上井と下井があいついで建設されたことによって、東伊那の経済情勢、ひいては部落ごとの勢力関係は刻々大きく変わりました。
  それにともない、地区内の政治情勢も変わったのであります。

<上井> ・起工 嘉永元年、同2年竣工       (上伊那誌より)
・水源 中沢、字熊の田谷及び曲沢などの水を中曽倉字広尾より引く
・工事関係者 湯沢曽右衛門
<下井> ・起工 嘉永7年 同年安政元年となる
・水源 中曽倉、字牛渕より
・工事関係者 唐沢市作 − 唐沢氏は湯沢曽右衛門氏と親戚で、
 湯沢氏の手下となって監督をしたといわれている。

  上井のつくられた時代は、終わりを告げようとしていた江戸時代の末期、家康以来15代265年続いた徳川幕府の「幕末」でありました。
  当時の高遠藩の財政はあまり豊かでなく、全国的な各藩の傾向でもありましたが、ペリーが浦賀に来航するなど、歴史が大きく激動するなかで藩の出費もかさみ、苦しい藩の財政をたてなおすためには、収入を増大させることより他はありませんでした。
  そこで、収入の主力である「年貢米」の増収にその方途をもとめ、農業生産を高めること、米作の生産高を向上させる必要から、上井・下井を建設することになったのであります。
  これは、高遠藩の方の要求でもあり、また農民(生かさず、殺さずといわれた百姓)の要求でもあったのであります。

 

○当時の日本と世界の動き

上井ができた当時の日本全体の動きをみますと・・・

上井の起工15年前には、有名な天保の大飢饉が起きております。そして8年前の天保10年には、幕府の「外国船打ち払い令」を非難した高野長英、渡辺崋山らへの弾圧事件である「蛮社の獄」(ばんしゃのごく)の起こった年です。
  そして、上井起工の嘉永元年を境にして、6年後にはアメリカのぺリーが浦賀に来港。10年後(安政5年)には井伊直弼が大老に就任して、その年に長州藩士の吉田松陰ら多数の志士を処刑した「安政の大獄」がおこりました。
  12年後、明治維新の8年前には、井伊直弼が水戸・薩摩の浪士に暗殺された「桜田門外の変」がおこったのです。

<メモ>
  嘉永元年、上井起工のとき、これから明治維新まで20年間ございますが、この嘉 永元年のときに高杉晋作が10才、久坂玄瑞が9才、伊藤博文8才、坂本竜馬が14才、後藤象二郎11才、板垣退助12才、大隈重信11才、三条実美12才、岩倉具視 24才、徳川慶喜12才です。
  そのときに西郷隆盛は22才で大久保利道が19才、吉田松陰19才で木戸孝允 (桂小五郎)16才、勝海舟26才でした。


  話を一転させまして、その当時の世界の動きをみますと、
  上井起工の80年前の1760年代には、徳川10代将軍「家治」の時代ですが、ワットが蒸気機関を発明し、それが動力として生産に応用されることによって、イギリスで「産業革命」がおこり、全世界的な規模に広がり始めました。
  70年前にはアメリカの独立戦争がおこり、そしてアメリカは「独立宣言」をしました。
  50年前には、フランス革命がおこりました。
 
嘉永元年(1848)のこの年は、上井が起工された年であります。この年に、マルクス、エンゲルスによって有名な「共産党宣言」がパリで発表されました。
・・・「一つの妖怪がヨーロッパにあらわれている」という前文ではじまり、本文の「ブルジョアとプロレタリア」では、「すべてこれまでの社会の歴史は階級闘争の歴史である」という有名な文句で始まって、最後は「プロレタリアはこの革命によって鉄鎖のほかに失うなにものもない。彼らの得るものは全世界である。万国のプロレタリア団結せよ!!」・・・という“共産党宣言”が出され、ヨーロッパにおいては急速に労働運動・革命運動が高まり、広がっていったのです。

<メモ>
  上井が起工された嘉永元年には、上伊那地方は田植えのころより大雨が降り続き、 6月に天竜川は大洪水が起きております。そして春近郷の田原村、殿島村は大被害を 受け、水死者をだしております。
  その2年前の弘化3年5月1日には、50年来の大荒れといわれる大洪水がおこり、たくさんの橋が流失しています。
  また、上井起工の9年後、下井起工の3年後の安政4年(1857)には、5月17日、18日大洪水が起こり、天竜川は氾濫し、箕輪の三日町澄心寺山崩れで大損害 が起きています。
  このときには大田切川も荒れて、駒ヶ根の下平地籍は大被害を受けて流死者1名が出ています。さらに、7月29日大洪水がおき、西山は大荒れし大田切川へ流木山の如く押し出すという、これまた100年来の大水害がおきています。

高遠藩の希望 − 政治力でおしきる
  現在の東伊那は、当時の高遠藩7ヶ郷のうちの一つであった中沢郷15ヶ村の中に入っており、中沢郷の伊那村、同栗林村、同火山村、同塩田村、同大久保村の5ヶ村に分かれていました。
  東伊那にとって「水」の問題は決定的に重要であります。
  当時、中沢地籍から東伊那にどうしても引水したいという農民からの希望、何とかして開田したいという希望はたくさん出されておりました。
  同時に、高遠藩の方からの希望も切実なものがあったのです。
  それは先ほども申し述べましたように、藩の財政状況を好転させるためには、どうしても収入を増大させるための処置をとらざるをえなかったわけであります。

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   <メモ>
    ●中沢郷15ヶ村
     ・貝沼村 ・福地村 ・火山村 ・大久保村 ・塩田村 ・栗林村 
     ・伊那村 ・本曽倉村 ・中曽倉村 ・高見村 ・菅沼村 ・中山村
     ・吉瀬村 ・大曽倉村 ・新山村
    ●高遠藩7ヶ郷
      ・藤沢郷 ・入野谷郷 ・中沢郷 ・川下り郷 ・春近郷 ・上伊那郷
      ・洗馬郷
    ◎7ヶ郷  = 86ヶ村。
    ◎石高  = 3万3000石


  百姓からさらに搾り取るには、当時の税金であった「年貢米」をより多く徴収するための方法をとることでした。
  そのため、当時も「水の権利」は重要なものであったわけですが、しかしながら時の権力者―高遠藩は、権力・政治力を持って領地内である中沢の高見村、菅沼村、中曽倉村、本曽倉村の農民をおさえて「上井・下井」をつくり、当時の伊那村・栗林村・塩田村・大久保村の開田をおし進めたのであります。
(火山がないのは、井筋のレベルより標高が高いので)
  中沢の農民を納得させるために、高遠藩では水利権の代償としていろいろな「条件」をつけ、「納得」させて東伊那に水をもってきたのです。
  この条件なるものが、今もって上井筋の東伊那の関係者が毎年矛盾を感じ、苦労している井筋の“維持・管理”の実態として受け継がれてきているのであります。
  上井についてみますと、落合洞から取水して中曽倉を通り、そこで一部開田をし、さらに本曽倉にいたりそこでも開田をし、そして本曽倉の「原」にいたって開田を進め、ようやく今の東伊那の伊那から栗林に至っているのであります。

 上井が東伊那に引かれる前には、細い井筋でしたが本曽倉村まで来ていました。 だから、この水利権を認めた上で、新たに伊那村、栗林村、塩田村、大久保村ま で水を引いたので、現在中沢の人たちは、“井筋の改修費・維持管理費”は1円も負担しなくてよい・・・ということになっているのです。

  上井は現在、細田北の栗林神社の東、天王川との合流点(小池勤氏宅西北)が末尾になっております。
  当時の記録や伝えられる話によりますと、「上井」は細田地籍からさらに栗林神社の近くを通り、塩田川を渡り、下塩田から大久保まで水は行ったといわれています。
  当時、大久保の善福寺の和尚さんは、この上井に大変力を入れて、下塩田から大久保の本村まで、井筋をつくる計画をもって実践したそうでありますが、いかんせん延長10数キロの末尾であって、水は土にしみこんでしまい、ついに大久保までは行かなかったといわれております。(2年間は水が通ったという説もあります)
  このように記録や伝えられている話にもとづいて考え、当時の様子をかえりみますと、「上井」そのものだけでも構想は非常に雄大なものであり、今から120数年前に実際にこの計画に基づいて建設されたということは、まことに重大な意義があったとと推察できるのであります。
  また、当時の「水」というものも、今日と同様非常に大切なものであり、その水の確保のために、多大な苦労と資金が費やされたわけです。
  それをなしとげた当時の住民の力、この辛苦を思うときに、現在この「井筋と水」をいささかもおろそかにすることは出来ないし、これを守ってゆかなければと痛切に感じ取ることができるわけです。


  古きを訪ねて新しきを知る
  高遠藩の「財政問題」での事件に、「わらじ騒動」といわれている有名な「興津騒動」が文政5年に起きています。
  これは上井起工の25年前のことです。
  また廃藩置県直前の明治2年には、“中沢郷の百姓一揆”がおきております。
  私たちの祖先が命をかけたたたかいをして、「生き抜いてきた」ことを胸に深くとらえておくことが今こそ大切であります。同時に現在問題となっている開発問題での、関係する地域住民のとるべき立場について考える場合にもそのことが大切であります。


@ 興津騒動(文政5年・1822)
  高遠藩の財政は前々から非常に苦しく、加えて7代藩主・内藤頼寧(よりやす)は大阪加番となったので、そのために一層財政をひっ迫させることとなった。
  「大阪加番」とは、だいたい1ヶ年交代で幕府から命ぜられる勤務で、藩主にとっては大変名誉なことであるが、これは家老・御用人をはじめとして、およそ200人の家臣がつきそって大阪での生活を送ることになるので、その出費は莫大で、幕府から少々支給される手当では到底賄いきれるものではなかった。
  文政5年、郡代・興津文左衛門と年寄役・浅利平太夫の2人は、藩財政の援助のため“領内の男子15才以上60歳までの者に毎日草鞋
(わらじ)2足”、“女子は1軒で1ヶ月に木綿1反を織り”これを5ヶ年継続して上納することとした。
  これらの上納品は高遠の町商人が売りさばいて、以前からの借金を返済することとした。
  この新しい課役は、それまで重税にあえいできた農民には、とうてい耐えられるものではなく、領内の各地から廃止の嘆願書がだされたが、両人はこれを聞き入れず一方的に計画をすすめていった。
  領主の権限の前にはまったく非力な百姓たちであったが、この非道な課役には限界があった。
  小野、川島、辰野、朝日など上伊那郷の百姓たちが城下へ押しかけたのをかわぎりに、全領内の農民がむしろ旗を押し立てて、毎日城下に押しかけその廃止を「強訴」ごうそしたのである。
  驚いた高遠藩では、急いで大阪加番にある領主にこの状況を報告して処置を仰いだところ、興津・浅利の両名は民情に通じていなかったということで、“追放”の処分を受けて騒動は落着した。
  しかし、藩財政の悪化はいぜんとして進み、ついに文政9年には、借財・10万3000両にもなって、このまま放置することはできなくなった。
(高鳥谷神社は文政12年、1829造営)そこで、領内の有力者・藤沢郷の北原九仁太郎、洗馬郷の原熊三郎、入野谷郷の黒河内谷右衛門、川下り郷の北原勝衛の4人を召して、藩財政のたて直しについて相談し助言を受けることになった。もはや武士の力ではどうにもならない封建社会の末期症状にきたといえる。
  その結果、藩所有の山林・竹木などを売却するほかに、領内の財産家から一割の利息を払って才覚金を募った。また40両だせば平百姓でも組頭筋になることができ、120両で年寄格、100両で帯刀一代、300両で永代帯刀御免、家に門をたてるにも、苗字をつけるにも100両、または50両で許されることになり、名誉も地位も金次第ということになり、武家社会という封建社会の制度は、せまってきた経済社会の変革の中で、ガラガラとまるで虚構のようにむなしく崩れ去ってゆくのである。

(注・興津騒動について、伊那谷の城下町より引用)

 

A  明治2年 入野谷郷・中沢郷一揆
(1)入野谷郷一揆
  入野谷郷というのは、上伊那東部山間の数ヶ村の総称であるが、また木師郷とも呼ばれ、南アルプス山間一帯にわたって、面積26000町歩におよぶ広大な山林を背後にもつ村々で、歴代高遠藩主がこの山林を藩林として経営するため特に木師郷を設定しているほどである。
  このような特殊な地域であったため、江戸時代を通じて領内における後進的地域でもあったから、明治の新政によって急激に経済情勢が変動したため、その影響を受けてことさらに現状における藩の重圧に耐えられなくなったものと思われる。
  つまり、課役負担の過重に耐えられなくなり、いままで鬱積していた領主や代官に対する不平が強度の反抗となってあらわれたものであるが、これを誘発したものとしては、慶應2年から明治元年にいたる3ヶ年連続の凶作があげられる。
  ことに明治元年には5月、8月の2回にわたって大風雨が襲来し、いわゆる「辰の満水」と称せられる大洪水が伊那谷全域に甚大な被害をもたらし、天明・天保に次ぐ大凶作となり、住民はその日の生計にも事欠く状態であった。
  明治2年(1869)12月1日の夜・7時から8時を期して蜂起し、郷方役所をめがけて押し寄せ「強訴」するにいたった。
  その勢2000人といわれ、てんでに腰に鎌をさし、手に手に竹やりを携えるという物々しいいでたちで、怒涛の如く押し出たのであった。
  このときの模様は、黒河内谷右衛門の手記によると、12月1日夜8時ころ、市野瀬村の源右衛門他3名のものが谷右衛門宅に騒動の勃発を報告、よってただちに、せがれ谷八に高遠へ注進させるとともに、源右衛門をひきつれ、まもなく村に入ってきた先発隊を奥地渡で差し止めようとしたが、群衆の勢いはこれを突破しておし進んだので、さらに溝口村で説得に努めたが効なく、今度は先回りをして山室川の橋まで行った時、入野谷郷の代官・荒川瀬兵衛が下役を従え駆けつけてきて民衆の説得にあたったが成功せず、なおまた奉行・山谷茂樹が山の神まで出張して慰留につとめたが、民衆の承服するところとならず、ついに九つ(夜中の12時)郷方役所に迫った。
  そこで高遠藩は、大屋敷鉄調練場に藩士を繰り出して暴動に備えるとともに、炊き出しをして群衆をなだめ、願いの向きを書き取って差し出すよう村々の役人に指示し、村役人らが2日夜、18ヶ条からなる嘆願書を差し出したので、村役人と平惣代だけ残って一同帰村するよう説いたが、民衆は聞き入れず、よって藩の大参事浅井清と岡野小平治が郷方役所に出張して奉行一行とともに協議し、その結果を民衆一同に回答した。
   (1)来年(明治3年)の秋まで住民が取り続きできるようにする(貢租を延期する)
   (2)天朝の仕法であるものは天朝にお伺いの上回答する。・・・その他。
  これによって一同承服し、12月3日暮れ6ツ時、引き上げて帰村した。

(2) 中沢郷一揆
  入野谷農民の蜂起とともに、中沢郷民数百人も上納の苦情を強訴した。
  明治2年12月8日のことであった。12月8日は入野谷農民が高遠城に押し寄せた12月1日〜3日からは遅れているが、これは何か連絡上の不備からこうなったのであろう。
  中沢郷民はいったん火山村の高鳥谷山に集結して謀議をこらし、群衆は一挙に高遠城目指して押し寄せたが、高遠城下の入口三峰川の弁天橋で藩役人らの手で差し押さえられてしまった。そして一揆の首謀者は処分されて鎮定した。
  中沢郷民の一揆は近年まで目撃者が生存していたので幾多の語り草が残されているが、なんでも“蓑笠などで身を固めて、鍬や鎌、竹やりを持ち、むしろ旗を押し立てて“すざましい勢いだったという。        (上伊那誌より)
  中沢郷の百姓一揆の中で、中沢郷15ヶ村の内「貝沼村」のみが一揆に参加していない。その理由について、私の推論は稿を改めて発表したい。

私のホームページ「赤須喜久雄・憲法9条をまもる、平和をまもる」の
「8、の「D高遠藩3万3000石百姓一揆物語」の「1、草鞋一揆
2、蓑笠一揆
」と「3、私的考察のAみのかさ一揆<15ヶ村中
1ヶ村の脱落>
」・・・ご参照ください。

 


<メモ> 高遠藩の財政

@ 初代藩主・内藤駿河守清枚が元禄4年(1691)、摂津富田から高遠3万3000石に移封された時、含み耕地6000石余を引き上げられた。
(元禄3年の検地によって、表高3万200石の高遠領は、一挙に3万9327石となり、実に9000石余が打ち出された。
 内藤氏3万3000石の残りの6327石は、洗馬郷のうち13ヶ村を割いて幕府領とし、松本藩あずけとなった。)
A 元禄7年(1694)と宝永4年(1707)にも大阪城山里丸の加番を命ぜられて、多額の費用を使ったこと。(大阪加番は譜代の家柄である内藤家にとって名誉なことであったが、家老からまかない方まで200余人の長期出張となり、その費用は莫大なものであった。)
B そのために藩では、新田開発や森林伐採に力を入れ、財政の立て直しに必死になっていた。
− 当時江戸の庶民の中では、貧乏高遠藩のことを、「城は高遠、銭はない藤」とか、「銭は内藤駿河の守」などとささやかれていたという。
  

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