8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
「人体実験・731部隊・陸軍中将石井四郎」と長野県伊那村
(現駒ヶ根市東伊那)


●与謝野晶子・
 大山郁夫・
 鈴木貫太郎と伊那村

●「帝銀事件」と長野県 ・伊那村

●「人体実験・731部隊
 陸軍中将石井四郎」と
 長野県伊那村

●登戸・伊那村・
 帝銀事件

●高遠藩 3万3千石
  百姓一揆物語

●ある城下町の
  町長選挙・顛末記

●上井・下井
   いまむかし

●終戦直後・お祭りに“花火”を打ち上げた話

●ある女性の
  崇高な思い

●諸国行脚
  奥の細道の巻

●真珠湾攻撃 日米開
 戦の日の朝と昼と夜

●劇画「赤須きくおの
  すべて」

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@石井四郎・発明の「濾水器」の部品、大量に現存
 731部隊長・石井四郎が発明した濾水器の部品である“濾水管”が、いまも大量に山積みされています。その数1000本余。
 私がそれを知ったのは、「登戸・伊那村・帝銀事件」の小文を1987年(s62)に発表してから少し後に、赤穂高校平和ゼミナールの生徒たちが、私の問題提起をもとに、元・陸軍第9技術研究所(別名、登戸のぼりと研究所)の伴繁雄(少佐)氏を訪ねたときに、伴氏から「大量にある」と知らされたからです。
 731部隊と陸軍第9研究所、そして陸軍中野学校とそれぞれが密接な関係のもとに、謀略をもって侵略戦争を推し進めたことの“証拠品”が身近にあるとは・・・まさにに驚きの一事件でありました。

A「神楽坂のお大尽」(遊郭でお金をおしまず使う人)

          石井四郎が「神楽坂のお大尽」といわれて、通った話を紹介しましょう。
          「赤旗」に連載されたものです。(森村誠一、悪魔の飽食)

1931年(s7)春のことである。
 東京・牛込神楽坂の料亭街で毎夜豪遊する男がいた。戦前の神楽坂は、芸妓置屋だけで十数軒をつらね、農村から身売りしてきた娘たちが身を沈めた花街である。
 「このごろ神楽坂の料亭に毎晩のようにあらわれ、湯水のように散財する若いお大尽がいる」こんな通報が、ひそかに料亭関係者から所轄の牛込警察署に持ち込まれた。
 通報を受けて、牛込署の刑事が内定してみると、確かに“客”の素性は怪しい。
第一に“客”は、容貌魁偉(いかつい)であった。身の丈6尺豊か、武術をたしなんだ者らしく身のこなしがすばやい。神経を集中するときに独特の三白眼になる。服装は、りゅうとした背広の三つ揃いで頭髪は5分刈り、夕暮れになると市ヶ谷方面から車で神楽坂に乗りつけ、大またで坂を登ってくる。
 「若い別嬪べっぴんの妓こは入っとらんか・・・お前の店は婆芸者ばかり配属しとるではないか」
 料亭奥座敷での大声や口調を聞く限り、職業軍人である可能性が大きい。牛込署は、“客”の存在を牛込憲兵隊に内報した。警察が現役の軍人を勝手に取り調べることが出来ない時代であった。
 命を受けた憲兵が内定を引き継いで見ると、その豪遊ぶりには唖然とさせられるものがあった。
 “客”は、きのうきょう置屋に入ったばかりの、まだ15歳か16歳の少女がいると耳にするや「半玉として座敷へ出せ、寝させろ」と料亭の女主人にせまり、水揚げ代として100円という大金をポンと支払う。当時の100円といえば、若いかけだしサラリーマンのほぼ3ヶ月分の俸給に匹敵する。
 札びらを切って手に入れた半玉を無理やり征服し、苦痛にゆがむ少女の表情を見て悦にいるというエキセントリックで少女姦趣味的な遊び方であった。
また“客”は、芸者を何人も連れ、ハイヤーを呼んで湘南海岸に遠出する。「実験」と称して宿で数人の芸者と一度に同衾するという話であった。その費用たるや、とても職業軍人の俸給ではまかないきれない多額なものであり、遊び方も通常の男に比較して、大いに異常であった。
 牛込憲兵隊は内定を続けた結果、“客”が当時陸軍軍医学校教官、三等軍医正であることを突き止めた。
 石井軍医正は、多額の遊興費をどこから捻出するのか?・・ここにおいて「帝国医療株式会社」という医療器具メーカーの存在が浮かび上がった。
帝国医療は、石井四郎軍医正の発明した「石井式濾水器」の製造を陸軍から一手に受注していた会社である。
 「石井式濾水器」とは、のちに陸軍防疫給水部と石井四郎の名を前線にとどろかせた細菌ろ過器である。珪藻土を焼いた素焼き陶器からなるろ過室に、汚水や河川水を通し、素焼きの微細な粒子を通過させることによって細菌を排除し、安全な飲料水を確保することができる。
 憲兵隊は、帝国医療が「石井式濾水器」の一手生産を引き受け、陸軍御用商人として急成長して行こうととする裏に、石井四郎軍医正との莫大な贈収賄疑惑があることを察知した。ただちに帝国医療関係者、石井四郎の双方を逮捕した牛込憲兵隊は、当時の金で5万円という巨額の金子が動いた事実を知ったという。

この話は、「赤旗」に連載された森村誠一氏の「悪魔の飽食」の第九章「仮面の“軍神”」のなかの引用です。

B「大量の濾水管は、帝国医療のしるし“松風”」

 なぜ伊那村にあるのか?・・・それは、「登戸研究所」が川崎の登戸から伊那谷に疎開した1945年(s20)5月、列車にて大量の荷物が運び込まれました。その中に濾水器やその部品がありました。終戦とともにそれは不必要となったのです。
直径8.5cm、長さ46cmの円筒の部品には、両端の金属部分に「軍事秘密」と刻印され、また“風”の記号が打たれています。帝国医療のものです。
 なぜ伊那村と周辺の町村へ“登戸研究所”が疎開したのか?・・・長野市の松代への大本営の移転との関連はどうなのか?・・・
 戦前、731・石井部隊長と伴氏は当然仕事柄関係がありました。
悪名高い、石井四郎731部隊長は、戦後何らの責任も問われていません。
終戦後、伴氏は占領アメリカ軍(GHQ)にドルだてでやとわれ、米国にも行っていたそうです。

メ モ <第9研がかかわった人体実験>

<その1> 昭和16年五月22日(1941)から、場所は南京の病院。
相手は支那人捕虜の男30人を毒殺する実験。
  紅茶の中に薬をいれ、試験官と一緒に飲む。毒薬は捕虜のみ入れる。
島倉氏の供述「青酸カリは沢山やった。完全死まで注射3分、飲ませて  5分〜10分、心臓が止まるのが10分位。(飲むとすぐ倒れる)
<その2> 昭和18年10月(1943)―上海特務機関の一室。相手は中国人捕虜。
3人づつ部屋に入れられ、白い手術衣の軍医(実は第9研究所員)が 「 いま伝染病がはやっている。もし発病したら日本軍も困るし、君たちもつらい。それで、今日軍医が予防薬を持ってきた。飲み方は @第一薬を飲み Aすぐあとで第二薬を飲む」と説明し、軍医も衛生兵(憲兵)も茶碗へ注いだ薬を飲んだ。もちろん毒薬は捕虜のみに飲ませた。結果は予想通りうまくいった。
  5〜6分たつと激しく苦しみだし、四股を引きつらせ昏倒し、2〜3分の後絶命した。青酸カリなら即死だが、5〜6分後に倒れるというこの毒物の成果は、これで実験済みとなった。
<薬の使用目的> ・敵地に潜入した情報員が捕われたとき、スキを見て看守を薬で( )し、脱出する時間稼ぎ。
・敗戦時の自決用として考えられた。飲んですぐ倒れたら後から飲むものが勇気を失うので、5〜6分の猶予をおくようつくられた。

メ モ <陸軍中野学校>
  ・陸軍中野学校は、諜報、宣伝、謀略などの秘密戦にたずさわる要員の
   人的養成機関であった。
  ・登戸研究所は、秘密戦をささえる資材、機材の研究、開発、製造機関であった。
  ・ニセ札での経済謀略において、中野学校の果たした役割は大きかった。

メ モ <731部隊とは>
  ・満州第731部隊(関東軍防疫給水部)
  ・日本陸軍の細菌戦部隊
  ・世界で最大規模の細菌戦部隊は、日本全国の優秀な医師や科学者を集めて、
    3000人の捕虜を対象に生体実験を行い、細菌兵器の大量生産を急いだ。
  ・この技術とノウハウは、現在の米軍生物化学戦部隊に受け継がれている。
  ・第731部隊の記録は、終戦と同時に完全に抹消され、戦史の空白となっている。
  ・最高責任者―石井四郎中将は戦後何らの責任も問われていない。

<100部隊とは>
  ・関東軍、軍馬防疫廠
  ・もう一つの細菌戦部隊
  ・731部隊の研究成果を基礎に、家畜と植物を対象とした細菌戦部隊。