8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
真珠湾攻撃 日米開戦の日の≪朝と昼と夜≫


●与謝野晶子・
 大山郁夫・
 鈴木貫太郎と伊那村

●「帝銀事件」と長野県 ・伊那村

●「人体実験・731部隊
 陸軍中将石井四郎」と
 長野県伊那村

●登戸・伊那村・
 帝銀事件

●高遠藩 3万3千石
 百姓一揆物語

●ある城下町の
  町長選挙・顛末記

●上井・下井
   いまむかし

●終戦直後・お祭りに“花火”を打ち上げた話

●ある女性の
  崇高な思い

●諸国行脚
  奥の細道の巻

●真珠湾攻撃 日米開戦の日の朝と昼と夜

●劇画「赤須きくおの
  すべて」

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真珠湾攻撃 昭和16年(1941)12月8日

日米開戦の日の ≪

 



真珠湾攻撃の写真 アリゾナ

「 “あの大国に、この小さい国で勝つことができるかしら” 」

・・・・と、いろいろ考えた。

● この文章は、駒ヶ根市郷土研究会の「大切なことを忘れないうちに記録に残そう」
・・・という呼びかけ(2008年3月)に応えて、東伊那の福沢文雄さんが寄稿したものです。
《 本人の了解のもと、ここにご紹介いたします。 》

〔T〕 福沢文雄 (平成21年<2009>3月5日)

@ 開戦当時の朝の思い出
   昭和16年12月8日、大東亜戦争といわれた第二次世界大戦が勃発した朝、自宅朝食時の様子と、当日国民学校(当時の小学校)の朝礼で校長先生の訓示の内容を書いた作文が最近出てきた。
  本会理事でもある近くの森田福治氏が奥さん愛子さん(当時国民学校3年生)の作文とともにどこからか探し出してきて、「ここに記録があるから」と持ってきてくれた。
  真珠湾攻撃の様子や当日朝の記憶は今でも鮮明に覚えているが作文のことは忘れていた。今読み返してみて教育の恐ろしさだけを感じている。恥ずかしながらそのまま子供心に何を感じていたのか作文を披露してみる。
  ただ、アメリカという大国との戦争に果たして勝てるのか子供心に疑問を感じていたことが作文の中で感じられる。 <作文別添>

A 敗戦時、現地で帰郷できず逃亡中亡くなった、満蒙開拓団員の悲しい思い出
  小生の近くに唐沢という一つ年上の少年がいた。彼の家は小さな駄菓子屋の長男で妹が一人いた。当時小生も彼の近くに住んでいたので子どもの頃はよく遊んだ。
  たまには喧嘩もした。彼は体も小さくひ弱だったので喧嘩はいつも負けてばかりいた。その駄菓子屋の一人息子を満州開拓団に押し込んだ先生がいた。校長様の名前も彼の担任の先生の名前も覚えているが伏せておく。
  いまでもたまに彼のことを思い出し涙することがある。ソ連軍に追われ逃げる途中で力尽きて亡くなってしまった。彼の同級生に、団員になった細田というのがいたが彼も亡くなった。とりわけ、近くのひ弱で一人息子を悲劇に合わせたのは誰だ。可哀相でならない。
担任も戦争の犠牲者と思うが、高等科を卒業してすぐだから今の中学3年生と同じでまだ子供だ。悲しい思い出だ。

〔U〕 【 国民学校初等科5年生の作文より 】

  日米開戦    (校名不明)  初等科五年   福沢 文雄 

昭和16年12月8日

 12月8日の朝、ご飯を食べていると、突然飛行機の爆音が遠くの方から聞こえてきた。その飛行機は東北の方から南をさして飛んでいった。
  すると、ご飯を食べていたお母さんが「今、飛行機が行ったで何かかわったことがあるかもしれない」と言っていた。
  お母さんの言ったことは当たっていた。朝学校へ来てかばんから本を出していると、正和さが教室の中へ入って来て「戦争が始まったぞ」といって、又、外へ出て行った。
  僕はへんに思った。戦争なんかずっと前から始まって居るではないかと思っていた。
  ベルがなったので体操場へ行った。校長先生が教壇の上にあがって「日米開戦が始まった」とおごそかな調子で、「いよいよ米英と戦争をすることになった。米国のような、こすいひけふな国はない。日本のえらい人が行って日本と仲良くしないかといったけれども彼等は、支那に戦っている兵士を引け、それから南京政府をつぶせと言ったそうだ」校長先生の目は涙で光って居た。「さうゆう者はここから行ってたたきつぶしたいくらいだ」とくやしそうな顔をしていた。
  其の事をきいて僕は胸がおどった。あの大国にこの小さい国で勝つことが出来るかしらといろいろ考えた。
  その日は、昼を食べてから体操場へ集まってラジオを聞いた。軍艦マーチはいつもよりおごそかに、高らかに響いた。
  学校から帰って、その日の新聞をみると日米開戦という大活字を見いだした。
  夕飯を食べてから炬燵で話した。お父さんが「この戦は長いぞ。戦に勝つには皆力を合わせなければだめだ。子供は子供としてのつとめがある。よく勉強したり、身体をきたえ、家では父母の言ふ事を聞いてお手伝いし色々の品物を大切にしなくてはならない。中沢のおぢさんも北支で戦死され大東亜の建設の捨石になられた。大きくなったら兵隊さんとなり敵をうつのだ。」とおっしやった。
  一番小さな弟が「おれも兵隊さんになるよ」と言ったら、皆笑った。僕ら子供でもやはりできることがある。自分のつとめを守ろう。戦地の兵隊さんの武運を祈ろう。また、戦没勇士の英れいにつつしんで感謝、もくとうをしやう。そして、日本の勝利を神様にお願いしませう。

(伊那村国民学校=現、駒ヶ根市東伊那小学校です)

 

〔V〕赤須喜久雄・私的考察・・・「伊那村報」と関連づけて 
                          (平成21<2009>年7月記)



長崎平和祈念像前にて

 アメリカの真珠湾を日本が奇襲攻撃して、太平洋戦争がはじまったのは、私の生まれた年、昭和16年(1941)の12月8日だった。
  それよりも
2年も前の、昭和14年8月10日付けの「伊那村報」には、アメリカやイギリスとの「戦争の覚悟」を村の広報「伊那村報」を通じて徹底させている。

  その広報の最後のページの[ 編集余録 ] の一部を、“再録”しよう。

○ 支那事変もすでに2か年、諸外国の目はひとしくわが国の一挙一動に集中され、この間隙、齟齬(そご)にもこれに付け入らんとする 狗狼の気構えを示している。
  風雲ますます急を告げる満蒙国境線!。危機をはらむ日英東京会談。米国の日米通商条約廃棄通告!。場合によっては日英通商廃棄も予想される。
  油断も隙もない世界の注視下にあるのだ。
  我らの覚悟が微動だも揺らいではならない所以(ゆえん)である。

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・・・・・ 侵略戦争一色。再び、こんなことが許される国にしてはならない。(赤)