<真珠湾攻撃> 昭和16年(1941)12月8日
日米開戦の日の ≪朝と昼と夜≫

真珠湾攻撃の写真 アリゾナ
「 “あの大国に、この小さい国で勝つことができるかしら” 」
・・・・と、いろいろ考えた。
● この文章は、駒ヶ根市郷土研究会の「大切なことを忘れないうちに記録に残そう」
・・・という呼びかけ(2008年3月)に応えて、東伊那の福沢文雄さんが寄稿したものです。
《 本人の了解のもと、ここにご紹介いたします。 》
〔T〕 福沢文雄 (平成21年<2009>3月5日)
@ 開戦当時の朝の思い出
昭和16年12月8日、大東亜戦争といわれた第二次世界大戦が勃発した朝、自宅朝食時の様子と、当日国民学校(当時の小学校)の朝礼で校長先生の訓示の内容を書いた作文が最近出てきた。
本会理事でもある近くの森田福治氏が奥さん愛子さん(当時国民学校3年生)の作文とともにどこからか探し出してきて、「ここに記録があるから」と持ってきてくれた。
真珠湾攻撃の様子や当日朝の記憶は今でも鮮明に覚えているが作文のことは忘れていた。今読み返してみて教育の恐ろしさだけを感じている。恥ずかしながらそのまま子供心に何を感じていたのか作文を披露してみる。
ただ、アメリカという大国との戦争に果たして勝てるのか子供心に疑問を感じていたことが作文の中で感じられる。 <作文別添>
A 敗戦時、現地で帰郷できず逃亡中亡くなった、満蒙開拓団員の悲しい思い出
小生の近くに唐沢という一つ年上の少年がいた。彼の家は小さな駄菓子屋の長男で妹が一人いた。当時小生も彼の近くに住んでいたので子どもの頃はよく遊んだ。
たまには喧嘩もした。彼は体も小さくひ弱だったので喧嘩はいつも負けてばかりいた。その駄菓子屋の一人息子を満州開拓団に押し込んだ先生がいた。校長様の名前も彼の担任の先生の名前も覚えているが伏せておく。
いまでもたまに彼のことを思い出し涙することがある。ソ連軍に追われ逃げる途中で力尽きて亡くなってしまった。彼の同級生に、団員になった細田というのがいたが彼も亡くなった。とりわけ、近くのひ弱で一人息子を悲劇に合わせたのは誰だ。可哀相でならない。
担任も戦争の犠牲者と思うが、高等科を卒業してすぐだから今の中学3年生と同じでまだ子供だ。悲しい思い出だ。
〔U〕 【 国民学校初等科5年生の作文より 】
日米開戦 (校名不明) 初等科五年 福沢 文雄
昭和16年12月8日
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〔V〕赤須喜久雄・私的考察・・・「伊那村報」と関連づけて
(平成21<2009>年7月記)

長崎平和祈念像前にて
アメリカの真珠湾を日本が奇襲攻撃して、太平洋戦争がはじまったのは、私の生まれた年、昭和16年(1941)の12月8日だった。
それよりも2年も前の、昭和14年8月10日付けの「伊那村報」には、アメリカやイギリスとの「戦争の覚悟」を村の広報「伊那村報」を通じて徹底させている。
その広報の最後のページの[ 編集余録 ] の一部を、“再録”しよう。
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・・・・・ 侵略戦争一色。再び、こんなことが許される国にしてはならない。(赤)
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