
昭和46年(1971)4月、市議選初立候補のときに、 S・Kさんから激励の文とともに四首の歌をいただきました。
このとき、故気賀沢文功先生が二枚の書にしたためてくれました。ひとつは、最初の「近隣の・・・」、もう一つは「四首を一枚に」。
38年前のことですが、その時以来の物心両面にわたるご援助に対して、今も“感謝”の気持は持ち続けております。
平成21年(09)5月24日 68歳誕生日に 赤須喜久雄
(ふと思い立ち、掛け軸などを整理した時に、気賀沢先生に書いて
いただいた四首の書が出てきましたので、さっそく表装を頼みました)
7月13日、表装もできたので作者の Sさんに見てもらおうと、3本の掛け軸を持って(@近隣の・・・A4首の書B日日是好日の書)○○寺へ行くと、お寺と親せき筋のM君(赤須と同級生、定時制も一緒だった)が奥さんと連れだってお寺の庭木の手入れに来たところだった。一緒にお茶を飲みながら昔の話に花が咲いた。
忘れていたが、住職だったS・S先生の立ち日(亡くなった日)は明日だという。
先生には、定時制の2年と3年の時に担任として大変お世話になった。
葬儀に参加した時、記念に住職自筆の「 日日是好日 」 の染物をいただいたが、女房がそれを気に入り、掛け軸に表装してベットの枕もとにかけてあるが、それも持って行って見てもらった。お寺には「染物」を額に入れてあったが、私の「掛け軸」を見て「これはいい」と Sさんも、M君夫妻も大変喜んでくれた。
「近隣の・・・ 」の書は、38年前に表装し、開業したばかりの「しぶき荘」の客室の 床前に掲げてもらったことがあったが、 Sさんがそれを見て「 私の作だ・・・と本当に驚いたし、嬉しかった。同席の友人には黙って居た」 という話も出た。
4首の書の二番目にある「 子のごとき若き運動員・・・」とは、Sさんの近所の今は亡き河野敏博君をうたったのだという。彼は高校卒業後、小金井製作所に勤め、その後党の専従として活躍した。“その風貌、立ち居振る舞いや発言など” 大物の器の人材であったが、若くして「多発性硬化症」という難病にかかり他界してしまった。
お母さんも同じ病気で亡くなった・・とSさんは話してくれたが、残念で仕方ない。
彼は、まさに若き有望な活動家だった。その青年に“励ましのことば”をかけてくれたのだ。当時、候補者も29歳、もう一人は25歳と若い。他の活動家もみんな若かった。
四番目の{内職の和裁}の話も出た。“2日後の結婚式に間に合わせて”と頼まれた和服の仕立ての話も楽しそうに語ってくれた。
当時は「世間体をはばかっていたが、今は何も遠慮はない。いまはみんな知っているし、おもて立っている」と・・・
一時間近く話し込んでから、M君夫妻と一緒に本堂横の S先生のお墓にお参りしてお寺を辞した。
M君との庭での会話は、「俺たちよりもSさんの方が長生きをするのでは」 と。
元気いっぱいの姿にひと安心した。
私から見て 崇高な人生を生きている。敬服するばかり。
2009年7月13日(H21)
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このような考えの人が、身近にいるということは、心強い限りである。今の政権党がその存在や役割をはたさず、野党と言っている民主党は、「政権を取りたいだけ」で、実態は自民党と同じではないか。 |
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Sさんのような、まじめに社会を考え、生きている人が、いま、だんだん増えてきていると感ずる。 |
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昭和46年4月、駒ヶ根市議会議員選挙が行われた。日本共産党からは29歳の私と、25歳の林奉文氏の2人が出馬し当選。 |
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駒ヶ根では、大きなセンセーションを巻き起こした。 |
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