8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
与謝野晶子・大山郁夫・鈴木貫太郎と長野県伊那村
<反戦歌人> <大正デモクラシー・労農党委員長> <海軍大将・終戦時総理大臣>


●与謝野晶子・
 大山郁夫・
 鈴木貫太郎と伊那村

●「帝銀事件」と長野県 ・伊那村

●「人体実験・731部隊
 陸軍中将石井四郎」と
 長野県伊那村

●登戸・伊那村・
 帝銀事件

●高遠藩 3万3千石
  百姓一揆物語

●ある城下町の
  町長選挙・顛末記

●上井・下井
   いまむかし

●終戦直後・お祭りに“花火”を打ち上げた話

●ある女性の
  崇高な思い

●諸国行脚
  奥の細道の巻

●真珠湾攻撃 日米開
 戦の日の朝と昼と夜

●劇画「赤須きくおの
  すべて」

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・・・・・ こんな話を耳にしました。

「 与謝野晶子の愛弟子の女性が東伊那にいる」・・・ということを耳にしたのは、数年前、21世紀になってからのことでした。
「 鈴木貫太郎・海軍大将(終戦のときs20年8月の総理大臣)は、戦前、何回も伊那村へ来ており、長男の嫁は伊那村の人。高鳥谷神社の石の大鳥居の額〔高鳥谷神社〕は、鈴木貫太郎が揮毫したもの。」・・・2年程前に聞いてはじめて知りました。
「 私の名前は、大正デモクラシーのリーダー大山郁夫に心酔した父が“郁夫”から取ったもので、祖父は父を大変怒った。」・・・ということを本人から聞いたのは、10数年ほど前の1990年代のはじめでした

まず、有名な三人の略歴を紹介しましょう。

  《与謝野晶子》
・1878年(M11)、大阪府堺市の菓子商駿河屋に生まれる。
・1901年(M34)、与謝野鉄幹と結婚。(6男、6女を出産) 歌集「みだれ髪」発表。
・1904年(M37)、「君死にたまふことなかれ」日露戦争さ中に発表。
・1942年(s17)、5月29日死去。有名だが、歌人としての評価は分かれている。

『君死にたまうことなかれ』 ・・・<詩の意味>
ああおとうとよ君を泣く
君死にたまうことなかれ
末に生まれし君なれば
親のなさけはまさりしも
親は刃(やいばを)をにぎらせて
人を殺せとおしえしや
人を殺して死ねよとて
24までそだてしや

旅順の城はほろぶとも
ほろびずとても何事か
(以下略)

ああ、弟よ。私は君を思って悲しんでいます。
君はけっして死んではならない。
末っ子として生まれた君だから、
親はいっそうかわいがって育てたのです。
親は、君に刃をにぎらせて、
人を殺せと教えたでしょうか。
人を殺して自分も死ねと、
そんなつもりで24才まで
育てたでしょうか。(中略)
旅順の城がほろびようとほろぶまいと、
そんなことはたいしたことではありません。

  <日露戦争では、ロシア軍は9万人、日本軍は7万人の死傷者を出した。
   駒ヶ根市でも、36人(赤穂21人、中沢7人、伊那村8人)が戦死している>

  《大山郁夫》
・1880年(M13)、兵庫県に生まれる。早稲田大学政治経済学部を主席で卒業。
・1910年〜14年、シカゴ大学、ミュンヘン大学に留学。1915年早稲田大学教授に就任。
・1921年(T10)〜「大正デモクラシー」といわれ、大山郁夫らの民主主義の主張が支持を
     集め、すべての成人男女に選挙権を求める「普選運動」が全国でもりあがった。
・1926年(T15)、労働農民党中央執行委員長就任。
・1928年(s3)、 山本宣冶が京都2区から労農党代表として衆議院議員に当選。
     戦争へと国民を引きずって行こうとした政府の政策に真っ向から反対。
・1929年3月5日夜、山本宣治暗殺される。大山郁夫書の墓碑銘
     「山宣ひとり孤塁を守る。だが私はさびしくない。背後には大衆が支持しているから」
     は、いまも多くの人の胸に刻まれ、たたかいを励まし続けています。
・1930年(s5)、普通選挙法に基づく総選挙で東京5区から当選。
     無産政党は予想以上の支持を集めた。時の内閣は、この背後にあった共産党に大
     弾圧を加えた。やがて昭和6年には軍部によって「満州事変」が引き起こされた。
・1932年(s7)、妻とともにアメリカに。ノースウエスタン大学政治学部研究嘱託となる。
・1948年(s23)、早稲田大学教授に復帰。1950年(s25)、京都より参議院議員に当選。
・1955年(s30)、死亡。

  《鈴木貫太郎》
・1867年(慶応3) 、和泉国(大阪府堺市)出身。 
・1887年(明治20)、海軍兵学校卒業。
・1894年(M27)、日清戦争勃発、旅順攻略に参加。1899年、海軍兼陸軍大学校教官。
・1904年(M37)、日露戦争勃発、軍艦「春日」副長。
・1905年(M38)、第四駆逐隊指令、「宗谷」艦長、海軍水雷学校校長、軍艦「筑波」艦長、
・1913年(T2) 、第二艦隊司令官。 1914年(T3)海軍次官。 (T7)海軍兵学校校長。
・1920年(T9) 、第三艦隊司令長官。1924年、連合艦隊司令長官、兼第一艦隊司令長
     官。
・1929年(s4) 、予備役、侍従長、兼枢密院顧問。
・1936年(s11)、2.26事件勃発、反乱軍に襲われ重傷。 54年ぶりの大雪の後、 陸軍
     部隊の反乱、政府高官への襲撃・殺害という大事件がおきた。
・1941年12月(s16)、ハワイ真珠湾攻撃。  1944年(s19)、枢密院議長。
・1945年4月(s20)、 鈴木内閣成立、総理大臣。  同年8月15日、鈴木内閣総辞職。
・1848年4月(s23)、 死去(享年81)

三人と伊那村(駒ヶ根市東伊那)とのかかわり・・・は?

@ 大山郁夫・・について

 長野県駒ヶ根市東伊那に「○○郁夫」さんという方がいます。
 1921年(大正10)生まれで、長野県職員を定年退職をされてから、地元の区長や、駒ヶ根市選挙管理委員長など要職を歴任されました。
 なぜ「郁夫」と命名したのか、その由来について、『父が大正デモクラシーの旗手・大山郁夫に心酔していて「郁夫」と命名。祖父は大変怒った』と1990年代のはじめに、名前の由来を話してくれました。
 労農党代議士で、治安維持法に反対して右翼に殺害された、京都府宇治市の山本宣冶の墓には、大山郁夫書の墓碑銘「山宣ひとり孤塁を守る。だが私はさびしくない。背後には大衆が支持しているから」があります。私は1972年以来この碑を3回訪れました。(1972,75,85)
 また、宇治の平等院近くの宣治の実家『割烹料亭・旅館』の“はなやしき”には2回宿泊しました。
 1960年(昭和35)7月、60年安保闘争の直後、東京で民主青年同盟の第六回全国大会が開かれました。私は当時19才で 定時制高校生でしたが、その大会に参加しました。来賓として故大山郁夫の奥さん(柳子)が参加し、来賓挨拶をされたのを記憶しています。

A 与謝野晶子・・について

「 与謝野晶子の愛弟子が、晶子の掛け軸(2幅)を菩提寺に寄贈した」との話を、私の女房が聞いてきました。
 1921(大正10)年、与謝野鉄幹は西村伊作とともに「文化学院」を設立。1930年(昭和5)には晶子が文化学院女学部長に就任しています。
 愛弟子の方は、「文化学院」の教師をしていました。 鉄幹(亡・1935年s10)も、晶子(亡・1942年s17、65歳)も、この愛弟子の方がみとったそうです。
 晶子が亡くなる直前に、愛弟子(貞子)を詠った歌が残され、晶子の末女の藤子さんが、愛弟子を訪ねて伊那村へ来た時に、それをしるした短冊もあります。

「山の花 それと は可なきことずてを 
貞子に托す 多磨のおくつき 」  晶子

                           末女   森 藤子 しるす

<うたの意味、どのように解釈するのでしょうか?>
“ 私の命はまもなく尽きようとしています。夫、鉄幹の待つ多磨の安楽で
心配の無いところへまいります。山の花でも手向けてください。後は貞子さんに頼みます ”                               〔文責・赤須〕

<メモ>
・おくつき(奥津城)神葬祭で死者におくる言葉、仏式の極楽浄土。
<安楽で心配のないところ>
・多磨、東京都の多磨霊園。与謝野家の墓地がある。鉄幹と晶子の墓には台座の上に歌が刻まれている。
○鉄幹 「今日もまた すぎし昔となりたらば 並びて寝ねん 西のむさし野」
○晶子 「なには津に 咲く木の花の道なれど むぐらしげりて 君が行くまで」
また、墓域前入口の左右にも
○「知りがたき 事もおほかた知りつくし 今なにをみる 大空を見る」 寛(鉄幹)
○「皐月よし 野山のわか葉 光満ち 末も終わりも なき世の如く」   晶子

B鈴木貫太郎について

 2003年の春、叔母の一周忌のときに聞いた話です。
「海軍大将であり、昭和天皇の侍従長もつとめ、太平洋戦争末期の昭和20年4月から終戦の8月15日まで、内閣総理大臣をつとめた人が、伊那村と深い関係にある」
・・・そこで調べてみると・・・
・鈴木貫太郎は、伊那村へ何回も来ている。
 ○長男の嫁の結納の時(結納の品々を持って来た)
 ○宮田の駅から歩いてきたり、自動車できたり。自動車が写っている写真もある。
・鈴木貫太郎の長男と○○さんの娘さんが結婚(大正末期)
 ○貫太郎の長男(鈴木はじめ)の嫁は、平成16年に、101歳で亡くなった。
 ○鈴木はじめは、侍従長など務めた。
 ○鈴木家は、昭和天皇の皇后とも姻戚関係がある。

  昭和3年10月建立の高鳥谷神社の石の大鳥居があります。その鳥居には「陸軍大将・鈴木貫太郎」が揮毫した『高鳥谷神社』の額があります。
高鳥谷神社は、標高1331メートルの高鳥谷山の頂上に奥宮が、そのふもとの山の中に本宮があり、駒ヶ根市東伊那地区約500余戸の氏子の崇敬を集めているお宮です。
神社の拝殿内の壁に、村の有力者○○氏が「@金3000円。A石の鳥居一基」奉納とあります。また、伊那森神社の境内には、昭和5年に鈴木貫太郎が揮毫した『諏方社』(諏訪社)の額もあります。

 昭和16年12月8日午前7時、ラジオは勇壮な『軍艦マーチ』の演奏につづいて、アナウンサーが緊迫した口調で放送した。
「大本営陸海軍部午前6時発表。帝国陸海軍部隊は、本8日未明、西太平洋において、米英軍と戦闘状態に入れり」・・と、これを繰り返し放送した。
 さらに昼頃、ラジオはアメリカ、イギリスに対する宣戦の詔勅を伝えた。戦いは、天皇の名において、正式に宣戦布告された。

 それから3年8ヶ月後、1945年(昭和20)8月15日、渾然一体として終戦を迎え、鈴木貫太郎内閣は総辞職した。

 戦後60年、今も、与謝野晶子の歌と、鈴木貫太郎筆の鳥居の額、さらに『東伊那の郁夫』さんも健在である。