8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
『帝銀事件』と長野県・伊那村


●与謝野晶子・
 大山郁夫・
 鈴木貫太郎と伊那村

●「帝銀事件」と長野県 ・伊那村

●「人体実験・731部隊
 陸軍中将石井四郎」と
 長野県伊那村

●登戸・伊那村・
 帝銀事件

●高遠藩 3万3千石
  百姓一揆物語

●ある城下町の
  町長選挙・顛末記

●上井・下井
   いまむかし

●終戦直後・お祭りに“花火”を打ち上げた話

●ある女性の
  崇高な思い

●諸国行脚
  奥の細道の巻

●真珠湾攻撃 日米開
 戦の日の朝と昼と夜

●劇画「赤須きくおの
  すべて」

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<2003年(平成15)駒ヶ根郷土研究会誌へ投稿、一部補足したものです>

 今から56年前、1948年(昭和23)1月26日午後3時すぎ、帝国銀行椎名町支店(東京豊島区)に40才代の男が現れ、「近くの家で集団赤痢が発生した。進駐軍(GHQ)が店内を消毒するが、その前に予防薬を飲んでもらいたい。」と告げた。
男はカバンから薬ビンやスポイトようのガラス器を取り出し、用意された17個の茶碗に液体を注入、自ら飲んで見せたあと、銀行員16人全員が犯人の指示通り、第1薬を飲み、つづいて1分後に第2薬(普通の水)を飲ませた。
 すると、はじめて強い酒を飲んだように胸が苦しくなった銀行員は、犯人の許可を受けて洗面所にうがいに行き、その場でバタバタと倒れてしまった。
 液体には青酸化合物が混入されており、銀行員が苦しんでいる間に男は16万4000円と小切手1通を奪って逃走した。この事件で12人が死亡、4人が助かった。
・ ・・・これが「帝銀事件」のあらましです。

@ 《 東京警視庁の二人の刑事・伊那村へ来る 》
 事件発生から3ヵ月後の4月25日、小川氏(33歳)と小林文作氏が、長野県上伊那郡伊那村字栗林へ「伴 繁雄氏」を訪ねてきた。彼らは伊那村に2日間滞在した。
伴氏は、浜松高専卒業後、1927年(昭和2)陸軍第九化学兵器研究所に入所。
【別名・登戸のぼりと研究所】

〔 第九研究所の組織と業務は 〕
★ にせ札・毒薬・風船爆弾   ☆ 世界最高水準の謀略兵器を生んだ
総務課  (研究所の運営に関する総務全般)
第1課  (物理関係全般、謀略者用無線通信機、無線探査機材、電話盗聴器、殺人光線、風船爆弾)
第2課  (化学関係全般、秘密インキ、スパイ用秘密カメラ、毒薬、特殊爆弾、時限信管)
第3課  (経済謀略資材、印刷関係謀略資材の調査・研究および製造、通貨にせ札など・書類・パスポート、各種証明書の偽造)
第4課  (第1課、第2課が研究・開発した機材を実用化するために、最終実験および製造工場の管理・運営)
・・・・ などであった。
 太平洋戦争も末期となった1945年(昭和20)5月、9研の2課は、川崎市多摩の登戸から伊那谷に疎開した(一部が伊那村小学校舎に)。終戦とともに解散。

 なぜ2人の刑事が伊那村へ来たのか?
 捜査本部は、「旧軍関係犯人説」が圧倒的意見で、捜査官は全国へとんだ。
3月29日、小川、小林両刑事は、元第9研究所員の川島氏と会った。「私がしゃべれば首がいくつあっても足りない。上司に相談して話す。」そこで、元9研第2課1班長「伴繁雄」氏を訪ねたのである。
 さて、伊那村での「伴元少佐」の供述は・・・・・・・
「毒物合成は個人謀略に用いる関係上、死後原因がちょっとつかめぬような毒物を理想として研究し、成功したのは【アセトンシアンヒドリン】(青酸ニトリール)でした。これは、青酸と有機物の合成に、9研が特殊なものを加えて作った。服用後胃の中に入ってから3分から7〜8分たつと青酸が分離して人を殺す。1回1人分2ccのアンプルに入っている。」
「帝銀の状況は、青酸カリとは思えない。もし私にさせれば青酸ニトリールでやる。」
 この時、2人の刑事はもう1人の第9研関係者の供述をとっています。
元技術大尉S氏(中沢在住)・・・・・・・
「青酸カリでは危険で出来ないから、青酸ニトリールでやる。」
・ ・・・・これが2人の一致した見解だった。

A 《 ターゲットは旧軍関係者だ。 一転・平沢逮捕 》
捜査はいよいよ追い込み状態となった。
 事件発生5ヵ月後の6月25日、刑事部長名での指示・「捜査方針の一部を軍関係者に移す。」
ところが8月21日、警察は、有名なテンペラ画家で、当時56才の平沢貞通を北海道小樽で逮捕。平沢は当初犯行を否認したが、自殺を3回はかった後“自白”。平沢は、帝銀事件の強盗殺人、同様手口の安田銀行の強盗殺人未遂、三菱銀行での強盗殺人予備、三菱銀行丸ビル支店でのサギ・・などの罪で起訴された。
 しかし、第1回の公判より、詐欺罪は認めたが他は一貫して無実を訴えた。
1955年(昭和30)・最高裁で死刑確定。その後18回の再審請求の申し立ても、そのたびに却下された。

B 《 秘密の捜査会議に、伴氏出席 》
 平沢が逮捕されてから15日後の9月6日、警視庁の刑事部長の私宅で捜査会議が開かれた。捜査の主流が平沢「シロ説」から「クロ説」に急転する時期にあたる頃である。
 テーマは「毒物」についてであった。その毒物とは「青酸カリ」についてである。
 この会議になぜか民間人の「伴氏」が出席していた。
 会議に出席した人の話によれば、この時点で捜査線上から「アセトンシアンヒドリン」は姿を消していたようである。

C 《 帝銀事件の裁判、伊那でおこなわれる 》
 翌年、1949年(昭和24)12月19日、公判が長野地方裁判所伊那支部に出張して行なわれた。裁判官の問いに答えて

【伴氏】 は、「私は、使用毒物は純度の悪い工業用青酸カリであると断定しました。本件被害者の解剖による法医学的報告ならびに理化学的報告により、毒物が青酸塩であることは明らかでした。」
【裁判官】「アセトンシアンヒドリン は?」
【伴氏】  「軍の研究所で作り上げた超即効性の毒物で、青酸とアセトンを主原料とした青酸化合物であり、致死量を与えれば2分から3分で中毒症状を表し、一番早いもので30分位で死に至ります。」

・ ・・・・・・ この出張裁判での「証言」が「毒物が青酸カリである」とする判決に有力な役割を果たした・・・と言われていますが、真実はどうだったのか。

D 《 イレブン・PM と 伊那村(現東伊那) 》
死刑確定から32年、1987年(昭和62)5月10日、平沢は95才で獄死した。
 平沢死刑囚が獄死した直後の、5月25日夜、テレビ信州・イレブンPMで「帝銀事件、いま衝撃の新証言」が放映された。
 そこには東伊那小学校の校舎の前に立つ、伴繁雄氏が登場し、字幕で「元陸軍第9研究所が疎開していたところ」と紹介していた。
 テレビを見た人の記憶をたどると次のようである。
【質問】 帝銀事件に関しては?
【伴氏】 青酸カリの犯行ではなかった。青酸ニトリールである。判決認定が間違っている。
【質問】 青酸カリとの違いは?
【伴氏】  帝銀事件の症状は青酸カリでありようはずがない。3分から数分で効果があらわれている。青酸カリの場合は即効果があり死ぬ。
【質問】 どこでつくった薬か?
【伴氏】 これは陸軍でつくった薬だ。おそらく登戸でつくった薬だ。
【質問】 犯人みずから飲み方を実演したのは?
【伴氏】 上みずを飲めば何ともない。
【質問】 どういう人体実験をしたのか?
【伴氏】  僕は手をくだしていない。手を下したのは731部隊であったり、他の部隊・100部隊であったりした。
【質問】 薬品の効き目から見て、入手出来る人は?
【伴氏】  陸軍が管理、渡したのは4、5人。犯人は平沢ではない。デッチあげである。元陸軍の関係者がかかわっている。
【司会者】 今の証言には驚きました。今後も勇気ある証言がどんどん出てくることを望みたいと思います。・・・と結んだ。
 

E 《 GHQから捜査中止命令 》
 伴氏の証言は二転三転した。何が真実なのか。平沢裁判の中で、弁護側が伴氏を承認申請したとき、検事側から「それをついて行くとGHQの壁につきあたりますよ」と発言があり、結局認められなかった。
 捜査当局は、犯人は毒物使用になれたくろうと・・・と判断し、旧陸軍関係の特殊任務関与者に的を絞り捜査を開始した。ところが、捜査が核心に至った時点で、占領軍GHQから突然、旧陸軍関係への捜査中止が命じられ、捜査の傍系にあった「名刺班」によって、平沢が逮捕された。(犯人は安田銀行で「厚生省予防局、医学博士・松井某」の名刺をだした。)
途中での急激な方針転換はなぜか?
・ ・・それは、「GHQの超権力の障壁」と言われている。

F 《 平沢のふるさとは、私たちの郷土、上伊那だった 》

「 帝銀事件・平沢貞通」の調査の最後に、私は北海道小樽市の共産党市議団長に調査を依頼しました。
 返事は「平沢が生まれ育ち、6才までいたのは・・長野県上伊那郡西春近村0000番地(現伊那市西春近)」
 平沢の「ふるさと」は、6才まで生活し、12才まで本籍地であった・・この地「伊那谷」だった。
生まれてから幼き日を過ごしたこの地を想い、伊那節の一節
“  東千丈  西駒ケ岳  間を流れる天竜川  ”・・・・・
と、最期に脳裏をよぎり、そう口ずさんだかどうかは知る由もない。



この文章は私の拙文「登戸・伊那村・帝銀事件」(1987年<昭和62>)をもとにまとめたものです。当時、伴氏も私の文を読んでいますが、特にコメントはありませんでした。(すでに故人)
日本の戦後史は「帝銀事件」を抜きには語れません。日本国中をふるえあがらせた事件が、伊那村を一つの舞台に繰り広げられていた。このことを多くの人は知らなかった。
終戦(1945年、昭和20)とともに処理した薬品の一部が、いまも伊那村(東伊那)の土の中(横穴)に眠っています。