平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)
《第10回》“伊藤千代子・顕彰碑”
                   <土屋文明自筆の「伊藤千代子がこと」の三首の碑>


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   ・まをとめのただ素直にて行きにしを 囚へられ獄に死にき五年がほどに
   ・こころざしつつたふれし少女(をとめ)よ 新しき光の中におきておもはむ
   ・高き世をただめざす少女等ここに見れば 伊藤千代子がことぞかなしき

◎ モニュメントのあるところ  ・ 諏訪市湖南南真志野墓地

◎ 碑はいつたてられたか      ・1997年7月(05年7月・土屋文明自筆の碑に改装)

◎ 伊藤千代子さん・・・どんな人?
(くわしくは、「伊藤千代子先頭ページ」 http://www.lcv.ne.jp/~tiyoko17/ を)

  伊藤千代子顕彰の碑文 伊藤千代子は1905年(明治38)7月21日、ここ諏訪の南真志野の農家に生まれ幼くして母と死別、湖南小学校から中洲小学校へ転校し、祖父母の援助で諏訪高等女学校(現二葉高校)に学び、高島小学校の代用教員の後仙台尚絅女学校から東京女子大学へと進んだ。
  千代子は常に生活に苦しむ人々に心をよせ、世の中の矛盾と不公平さを許せず、学内で「資本論」を学ぶなど、社会科学研究会で中心的に活動した。郷里では初の普通選挙をたたかう革新候補の藤森成吉を支援、岡谷での歴史的大争議であった山一林組の製糸工女らを激励し、社会変革の道にすすんだ。
  1928年(昭和3)2月、千代子は日本共産党に入党。3月15日の治安維持法による野蛮な弾圧で逮捕、市ヶ谷刑務所に投獄される。千代子は獄中での狂暴な拷問や虐待にも屈せず、同志を励ましたたかい続けたが、ついに倒れ1929年9月24日、24歳の若さで短い生涯を閉じた。
  千代子の死後、女学校時代の恩師でアララギ派の歌人土屋文明は暴圧化のきびしい言論統制の中の1935年、教え子伊藤千代子の崇高な生涯を悼み歌に詠んだ。
  千代子のこころざしは今も多くの人々に受け継がれ、生きている。

◎ 伊藤千代子と土屋文明          (伊藤千代子ホームページより抜粋)
  土屋文明とは『アララギ』の総帥、歌人土屋文明のことである。その若き日の4年間が教育者として諏訪高女とともにあった。
  伊藤千代子と土屋文明との運命的な出会いは、諏訪高等女学校へ入学した1918年(大正7年)4月であった。土屋文明からは英語、国語、修身の授業を受ける。さらに土屋テル子夫人宅で英語補修を受けていたといわれる。この4年間に豊かな感受性とひたむきな情熱をひそめる千代子は、歌人教師土屋文明に大変大きな影響を受けることとなった。その後、波瀾の生涯を経て24歳の若さで実質獄死する。
  それから5年後、弾圧が極に達していた時代に『アララギ』1935年(昭和10年)11月号に千代子をうたった歌を発表。

☆たずねる人・・・ Aちゃん
「 戦争の足音が強まる時代に、こころざしを貫き、素直に誠実に生き、そして倒れた伊藤千代子。その生誕100年記念事業にお集まりください。」のチラシを見て訪ねました。
  この碑については、建立当時から新聞報道などで知り、中央道からも見えるところにありますが、墓地を訪れたのは初めてでした。
  少し急な坂を登り、中央道をこえたところに“伊藤千代子の墓地と顕彰碑”があります。
  墓前碑前祭は、土屋文明の次女の方の献花、「千代子こころざしの会」会長の開会あいさつ、そして、木島日出夫実行委員長、文明の長女の方、伊藤千代子の墓地を守ってきている伊藤善知さんがあいさつしました。諏訪市長と市議会議長からのメッセージもありました。
  とくに伊藤善知さんのあいさつに涙が出ました。2005年7月17日、「千代子こころざしの会」発行の “今、新しき光の中へ 伊藤千代子顕彰碑建立記念誌《第4号・生誕100年記念号》”から、「
伊藤善知さんのはなし」を紹介しましょう。
『 わたしは、千代子さが亡くなった次の年に生まれました。父は千代子さのいとこにあたる人で、千代子さのおばあさんが亡くなって家族がいなくなったので、伊藤家の跡を継いでいました。
  千代子さが亡くなったとき、父は東京へ遺骨を引き取りに行って骨壷を抱いて帰ってきたそうです。中央道建設のために墓地を移転したとき、私はその骨壷を現在の墓地に埋葬しました。
  千代子さが亡くなる少し前に、父は松沢病院に見舞いに行きました。面会の折、父は「貧乏で何の見舞いもないが、おばあ様からの土産と思って薬を飲んでくれ」というと、千代子さは「この薬を飲むと具合が悪くなるけれど、兄さんがそう言うなら飲む」といって、その場で涙ながらに薬を飲んだそうです。
  父から様子を聞いた家族は、千代子さは正気で正常なのに精神病院に押し込められている。また、千代子さはあの薬で毒殺されたのではないか、などといっていたそうです。
    (中略)
  千代子さの葬式には、近所の人たちは畑の向こう側から遠巻きに眺めていたそうです。そういう中で、千代子さの身内は、千代子さのことについてほとんど口にしたことはありませんでした。けれども、私は、千代子さに関していやな思いをしたことは一度もありませんでした。村の人からは「お前のところは、頭の良いすごい人が出た家だぞ」などといわれました。
  私が小学校3年生の春、亡くなった私の父の1周忌と千代子さの7回忌の法事をいっしょにやりました。私は叔父にいわれて、上諏訪の親戚まで歩いて行って法事のことを伝えたところ、都合悪くて行かれないとの返事でした。
  経費を節減するために、当時は「塔婆供養」といって、坊様から塔婆を作ってもらうだけですませることが多かったのですが、このときは幾日も前から煮物や寿司などの準備をして、お客をやりました。
  私は、千代子さの50回忌まできちんと法事をやってきました。以前には思いもよらなかったことですが、共産党の人たちがこのように千代子さを顕彰してくれて、ほんとうに嬉しく思います。 
2005年6月 』
  墓前碑前祭のあと、「9条の会」呼びかけ人の澤地久枝さんの記念講演会と全国交流会がありました。私は都合があり参加できませんでしたが、新聞報道によれば、東京から230人がバスで参加したほか各地から1000人余が集まったそうです。
  記念事業実行委員長の木島日出夫前衆議院議員は、「千代子の生きた時代と今の日本の状況が重なりはじめている。この危機感が、千代子のこころざしたものを今に生かしたいとの思いにつながっている。」とあいさつしましたが、いま、憲法改正への動き、首相の靖国神社参拝問題など、“歴史の逆戻りはさせない”との決意を心に秘めて、顕彰碑を後にしました。