平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)
《第2回》 “嵐の中の母子” 像 原像


平和モニュメント>>>

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◎モニュメントのあるところ・長野県駒ヶ根市上穂栄町、文化会館となり「平和の森」・広島市、平和公園

◎作者・本郷 新 1905年〜1980年、74才で没。札幌生まれ、高村光太郎に師事。戦後平和運動に積極的にかかわる。
 嵐の中の母子像は、非人道的な原爆投下を告発した作品です。第5回原水禁大会を記念してつくられた石膏像を広島市に贈りました。その原形を、広島市の婦人連合会がブロンズ像にすることを決め、150万円の寄付を集めて1960年8月5日に、広島市の平和公園に建立しました。
 右手でしっかりとみどり子を抱きかかえ、左手でもう1人の幼児をかばいながら、苦しみに耐えつつ前かがみの姿勢で生き抜こうとする母親の銅像です。
 この像を見ていると、戦争のこわさと子供をどうにかして助けたいと思う母親の愛情を感じます。
◎駒ヶ根市にあるのは、その“嵐の中の母子”シリーズの一つです。
 90年8月、中城龍雄さんから寄贈されました。
    「核兵器の全廃、ヒロシマ、ナガサキを忘れるな!」(中城さんの言葉より)

☆たずねる人・・・Aちゃん
  2004年3月11日、広島市の平和公園をたずねました。3日前から隣近所の同好グループで、大宰府・下関・萩・岩国・宮島をめぐって最後はヒロシマでした。
  “嵐の中の母子像”は平和公園のレイアウトの要の位置、原爆資料館前に建立されており、この像からみると、資料館の1階の空間部分の真ん中、埴輪型の原爆死没者慰霊碑、平和の火、そして原爆ドーム・・・と一直線で結ぶその要をなすところにありました。像は予想よりも大きく、H=1.5m、L=1.6m,W=65cm。
台座などを入れるとH=2.5m位になります。
  さて、駒ヶ根市にあるのはミニである。
  1990年8月の中城さんからの寄贈の式にも参列しましたが、今回10余年ぶりの対面となりました。広島市の像にくらべるとずいぶんと小さい像であるが、ヒロシマに4回、ナガサキに5回、それぞれの平和公園、平和祈念像、原爆資料館など見学したときのインパクトと同じ、「核兵器の全廃、ヒロシマ、ナガサキを忘れるな!」の強烈な訴えを感じる“迫力”がありました。

【参考メモ】
☆文化会館から駒ヶ根駅に向かってすずらん通りを東に50mの左側に、私にとって政治の先輩・故春日正一さんのお墓があります。本人が生前に建てたものです。
  春日さんは、若くして上京、労働運動や、革新運動などで活躍、天下の悪法「治安維持法」により何回も検挙投獄され、戦後は日本共産党の幹部として衆議院議員や参議院議員として活動しました。
  戦前のきびしい弾圧のなかで、街の中心部にある生家は姉さん夫婦が守りましたが、春日さんは名実ともに“縁をきられ”て、本籍は隣村の宮田村の誰も住んでいない“竹やぶの中”に移されました。
  過日、「わだつみのこえ」と「嵐の中の母子」像を見た後にお参りしてきました。
☆ そのあと、ふたたび文化会館前の道を南に150m進むと、「わだつみのこえ」像と「嵐の中の母子」像を長野県駒ヶ根市に寄贈した、故中城龍雄さんのお墓があり墓前に合掌してきました。(春日さんは生前、中城さんを「僕の大先輩だ」と敬意を表していました)
《中城龍雄さんのこと》 1988年2月4日・赤旗新聞より
「 創刊60周年記念招待会・2日夜、東京新宿区の日本青年館で開かれた招待会は、「赤旗」のいっそうの発展を期待する各界各層の人たちのあたたかい交歓、交流の場となりました。
  < 貴重な紙の思い出 >
○参加者のなかには、終戦直後の紙不足のなかで「赤旗」の用紙を提供した中城龍雄さん(84)の姿がありました。中城さんは、戦前は「全協」中央機関紙責任者、赤旗編集員として活動、治安維持法違反で検挙、投獄されたあと、出版関係の仕事に従事しました。
○戦後、党の出版局長をつとめる一方、「真理社」社長として、宮本顕治現議長の戦後初期の著書を出版するなど、党と民主的文献の普及に尽力。いまも、郷里の長野県・駒ヶ根市立図書館に設けられた「中城文庫」へ、党幹部などの著作を多数購入して贈呈するなどなどの活動もつづけています。
○中城さんは「忘れられない思い出は、戦後、共産党が公然と姿を見せたときのために・・と軍が放出した紙を確保。「赤旗」に貴重な紙を寄贈、発行にも協力したことだ」と語ります。
○「いまでは考えられないほど、紙も印刷所もなくてね。「赤旗」もずっと見ているが、ずいぶん良くなってきた。数も大変なものになってきたが、ブルジョア新聞とくらべるとね。これが、5倍、10倍となると党ももっと大きくなる。がんばってほしい。」と感慨深そうに話していました。 」