1940年の夏、リトアニア日本領事館のまわりは、ポーランドからナチス・ドイツの迫害から逃れてきた大勢のユダヤ人たちに埋め尽くされました。
彼らには、もはや日本への逃げ道しか残されていませんでした。必死に「日本を通るビザを」と訴え続けていました。
杉原千畝は、日本の外務省に、ビザ発給の許可を何回も求めましたが、「許可を出してはいけない」との答でした。
祖国からの命令に従うか、人道愛に生きるか、杉原千畝は悩み、ついに妻とともに決断しました。「人道博愛精神第一」に生きようと。離任時間ぎりぎりまで、サインとスタンプを押し続けました。
戦後は、外交官でありながら、ブカレスト郊外の捕虜収容所に家族とともに収監され、帰国したのは1947年。
・・帰国後、帰国報告のため出頭した千畝を待ち受けていたのは「指令に逆らってビザを発給したこと」による「外務省の解雇」だった。イスラエルやポーランド、リトアニアなどが千畝に最高の栄誉賞をおくるなか、日本外務省が顕彰プレートを外交資料館に設置したのは、やっと2000年のことだった。
記念館には、生い立ち、決断の部屋、ビザ発給後の千畝、ユダヤ人の足跡などが紹介されており、館のまわりは「人道の丘」公園や、モニュメント、ベルによる歌「故郷の空、大きな栗の木の下で、今日の日はさようなら、人道の丘讃歌」などもながれています。
08年10月12日の新聞には、千畝氏の妻「幸子さん」94歳の死亡記事が載っています。(6月に友人と行って来ました。是非訪ねて見て下さい)
<場所>岐阜県加茂郡八百津町、電話0574−43−2460 大人300円
<交通>
中央道土岐JC〜東海環状道にはいり、1番目のIC、可児・御嵩で下車、約30分で八百津町の記念館着。
高速道は、7月に富山まで全通したので、郡上八幡、飛騨高山、白川郷、五箇山など、観光も便利になりました。
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