平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)
《第5回》 “戦前の反戦プロレタリア作家・葉山嘉樹”の碑


平和モニュメント>>>

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◎モニュメントのあるところ・長野県駒ヶ根市菅の台、切石公園

◎葉山嘉樹文学碑・建立、1984年晩秋(s59)葉山来住50年を記念して。

◎碑には何を書いてあるか?
 「よし、毎日の生活が不足であり、迫害が絶えず襲いかかろうとも、人間の生活
 から『善』を奪われることを、私たち信州文化の同人たちは、守ろうではないか。
 文学とは、そのようなものだと私は思っている。    葉山 嘉樹      」

◎どんなひと?
 1894年(M27)福岡県生まれ。早稲田大学高等予科に進学するが、学費未納に より除籍。その後名古屋で新聞記者をしながら、各種労働争議を指導した。
 1923年(T12)名古屋共産党事件で検挙、投獄され、獄中で自己の体験を作品化し、「海に生くる人々」などを書き上げた。
 1945年6月(s20)、満州開拓団の一員として中国大陸に渡り、同年10月引き上げ列車の中で病没した。

◎文学作品は?
 葉山嘉樹は、日本の代表的なプロレタリア作家である。「淫売婦」「セメント樽の中の手紙」で衝撃的な文壇デビューをかざり、代表作の「海に生くる人々」は、プロレタリア文学に芸術的な完成をもたらしたと高く評価されている。しかし、戦時体制の進行とともに、プロレタリア文学の自由な発表が出来なくなり、生活は困窮していった。
 1934年(s9)、ついに東京での作家生活が維持できず、長野県天竜渓谷の鉄道工事現場におもむく。2度と東京に戻ることなく、長野県の伊那谷や木曽の山村で生活苦とたたかいながら作品を書き残した。

◎駒ヶ根にはいつ住んでいた?
 1934年9月(s9)から1938年1月(s13)までの3年半、(葉山嘉樹40才、妻菊枝、子供2人の4人)

◎長野県上伊那郡赤穂町(現駒ヶ根市赤穂)を舞台に書いた小説“義侠”
 ・・・赤穂に来て最初に住んだ家の「 一軒おいて先となり」に万屋(よろずや)という雑貨屋があった。「米でも、炭でも、雑貨でも、焼酎でもあり、代金は(葉山には)ある時払いの催促なし」であった。店の主人は葉山に『あんたみたいな人は、この赤穂でつきあえる者は少ないんだし、出来るだけ仕送らねばならんと思っとるが、それが出来んのでつらい』と涙ぐましい事をいって慰めてくれた。
  「長男はシンパで2年求刑されて今京都へ行っているのだ。中城龍雄とか言ったっけ、この親にしてこの子ありと思った。 」・・・と結んでいる。
  〔 義侠心とは=正義を重んじ、弱い立場の人を助けようとする気持ち 〕
○万屋の長男・中城龍雄とは、「きけ!わだつみの声」像と「嵐の中の母子」像を駒ヶ根市に寄贈したひとです。
○万屋の主人の言いつけで、日常の生活で使ういろいろな品物を葉山宅に届けた従業員「小説に出てくる、小僧さん」は、葉山嘉樹碑建立のときは健在であった。
 坂本秋次氏(大正11年11月生まれ)小学校を出てすぐ柏屋(小説では万屋)に奉公した。葉山のことをよく覚えている。記念碑建立が縁で中城龍雄氏をたずね再会した。50年ぶりであった。
    《秋次氏の長男は、現在日本共産党駒ヶ根市議の坂本裕彦氏です》

☆たずねる人・・・Aちゃん。
 建立にかかわった一人として、久しぶりに「葉山嘉樹」の思いにしたることができた。今日の新聞に、朝鮮人を強制連行して来て、下伊那のダムの建設に従事させた問題の裁判の記事が出ている。葉山嘉樹が鉄道工事現場の事務員として働いていた、今から70年もまえの頃のことである。
・1971年(s46)4月、駒ヶ根市議会議員選挙に日本共産党から新人の2人が立候補し当選した。(赤須=29才、林奉文=25才)2人はそれぞれ自宅を選挙事務所としたが、街部にも事務所を設けた。林氏(現在長野県議)の街部事務所に借りたところは、葉山嘉樹氏がかつて住んでいた竜生町の家でした。
「 一昨日越しました。今度は日当たりのいい明るい小さな家です。8畳、6畳、台所に内井戸があって5円50銭の家賃です。竜水社という製糸工場の東南方です。線路より下になります。」・・・と、葉山嘉樹は書いています。
・葉山嘉樹の碑の近くに(200m西)、相馬御風の「やまぶきの碑」があります。
   “志なのなる 伊那の高原 春ゆくと 山吹はさけり ひとえ山布起 ” 御風
・糸魚川の御風の生家を訪ねて・・・・・「 1987年(s62)7月17日、前夜糸魚川の駅前旅館に泊まり、早朝街の中を散歩していたら『相馬御風』の旧宅が新潟県史跡として保存されているではないか。管理人も相馬という名字で「赤旗」のポスターがはってあった。おばあさんがいたので『息子さんは共産党かね?』と聞いたら、『マッカッカだ』との返事。親戚だそうだ。
 相馬御風の子孫は東京にいるので管理しているという。早稲田大学の校歌・・・都の西北・・・は、彼の作詞である。」(赤須喜久雄諸国行脚・奥の細道の巻I糸魚川より)