平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)
《第8回》“河野 新・少年の像”


平和モニュメント>>>

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◎モニュメントのあるところ・駒ヶ根市文化センターの西南、平和の森

◎建立 1989年7月1日(H元)

◎寄贈者 赤穂中学31会

◎彫刻家・河野新という人は?
遥かなる東春近村(ひがしはるちか)<繁栄日本のいしずえ、ある庶民の一生>
                 《河野 貢著(新の弟) 1990年発行・光陽出版社》 より引用
「 両親の出身地は、長野県上伊那郡東春近村。村を出たのが1920年(T9)。
 伊那から北海道の開拓へ、北海道から東京、東京から水戸、水戸からふたたび東京へ。仕事も、豆づくり、相場師、市電車掌、箱屋、ざぐり製糸、機械製糸、米屋と6回も変えた。父・河野貞治、母・志ゅう。長女、二女、三女、長男、二男、三男・新、四男・貢。(女3人、男4人の7人姉兄弟の新は6番目)1990年現在全員が健在である。
 大正9年に北海道へ入植した所は、農場主・福沢泰江で長野県赤穂村(現駒ヶ根市)の大豪農所有の農場で、広さが325町歩(ha)で、すぐそばに上士幌駅がある。
 その後、変転するが東京に戻り、昭和20年3月10日の東京大空襲に遭遇した。
 爆弾搭載能力のすべてを焼夷弾にふりむけた296機のB29が、本所・深川を中心に東京都東部に襲いかかり、最初、焼夷弾で巨大な円弧状に火災帯の輪をつくり、住民の退路を断ってから、輪の中を猛烈に焼夷弾のじゅうたん爆撃を加えた。機銃掃射もやられたし、空からガソリンも撒かれた。投下された焼夷弾は10数万発におよんだ。
 一夜明けて人々が見たのは、一面の焼け野原と、るいるいと横たわる死体だった。被害は死者8万3793人、罹災者100万8005人だが、死者は10万人とも推定されている。
 空襲の後、学童疎開も急がれ、「新と貢は」新学年を待たず長野県高山村の山田温泉に集団疎開した。東京に帰ったのは終戦の年の9月半ばだった。    」
 河野新の生い立ちやその背景については、『遥かなる東春近村』に詳しい。なかなか興味ある内容である。

☆たずねる人・・・ Aちゃん
  3月10日の東京大空襲と学童疎開を体験した“少年”を感じる像であり、平和を心から願っている・・・と思うのは私だけであろうか?。