平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)
《第1回》 “きけ!わだつみのこえ” 像 原像3体の1つ


平和モニュメント>>>

●与謝野晶子の掛け軸
  (近日公開予定)

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◎ モニュメントのあるところ・長野県駒ヶ根市上穂栄町、文化会館となり「平和の森」

◎ 作者・本郷 新 1905年〜1980年、74才で没。札幌生まれ、高村光太郎に師事。戦後平和運動に積極的にかかわる。代表作であり、日本平和文化賞を受賞した、戦没学生祈念像「わだつみのこえ」像(1950年作)は、当初東大構内に建てるつもりがならず、1953年(s28)立命館大学に設置された。
【 1943年10月、太平洋戦争での日本の敗色が濃厚となり、学生の徴兵猶予が廃止されました。これにより多くの学生が戦場へと送られ、その多くが2度と故郷の山河をみることがで きませんでした。
 この「戦没学生」の悲痛な体験を後世に伝え、反戦・平和の誓いを新たにしようと1949年、戦没学生の手記「きけ!わだつみのこえ」が発刊されました。「わだつみ像」はこうした学生たちの嘆き・怒り・苦しみをあらわしたもので、彫刻家・本郷新によって制作された。 】

◎ 90年7月1日、市制記念日に、寄贈・中城龍雄、ツル、タケヨさん。
<中城さんについては、第2回と第5回・“葉山嘉樹”のところで紹介します。>
「平和都市宣言をされた、文化都市駒ヶ根市に、世界恒久平和を願い、
心をこめてこの像を贈る 」    (駒ヶ根市出身、中城龍雄さんの言葉より)

   なげけるか  いかれるか  はたもだせるか
                     きけ  はてしなきわだつみのこえ

○ 日本戦没学生の手記 “きけ!わだつみのこえ” の巻頭手記を紹介します。
上原 良司 ・ 長野県南安曇郡穂高町大字有明、出身
慶応大学経済学部学生。昭和18年12月入営。20年5月11日陸軍特別攻撃隊員 として沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。22才。陸軍大

生をうけてより20数年、何一つ不自由なく育てられた私は幸福でした。温かき御両親の愛のもと、良き兄妹の勉励により、私は楽しい日を送ることができました。そしてややもすればわがままになりつつあった事もありました。この間御両親様に心配をお掛けした事は、兄妹中で私が一番でした。それが何の恩返しもせぬうちに先立つ事は心苦しくてなりません。
  空中勤務者としての私は、毎日毎日が死を前提としての生活を送りました。一字一言が毎日の遺書であり遺言であったのです。高空においては、死は決して恐怖の的ではないのです。このまま突っ込んではたして死ぬだろうか、否いな、どうしても死ぬとは思えませんでした。そして、何かこう突っ込んで見たい衝動に駆られたこともありました。私は決して死を恐れてはいません。むしろ嬉しく感じます。なぜなれば、懐かしい竜兄さんに会えると信ずるからです。
  天国における再会こそ私の最ものぞましき事です。
  私は明確に言えば自由主義にあこがれていました。日本が真に永久に続くためには自由主義が必要であると思ったからです。これは馬鹿な事に見えるかも知れません。それは現在日本が全体主義的な気分に包まれているからです。しかし、真に大きな眼を開き、人間の本性を考えた時、自由主義こそ合理的になる主義だと思います。
  戦争において勝敗をえんとすればその国の主義をみれば事前において判明すると思います。人間の本性に合った自然な主義をもった国の勝ち戦は火を見るより明らかであると思います。
  私の理想はむなしく敗れました。人間にとって一国の興亡はじつに重大な事でありますが宇宙全体から考えたときは実に些細ささいなことです。
  離れにある私の本箱の右の引き出しに遺本があります。開かなかったら左の引き出しを開けてくぎを抜いてだしてください。
  ではくれぐれも御自愛のほどを祈ります。
  大きい兄さん、清子はじめ皆さんによろしく。
  ではさようなら、ご機嫌良く、さらば永遠に。          良司
    御両親様

☆たずねる人・・・Aちゃん
先日久しぶりに像の前に立ち、平和への決意を新たにするとともに、世界の平和や歴史を逆戻りさせようとする、憲法改正の動きなどに思いをめぐらしました。90年7月の除幕式には、中城さん夫妻、作者・本郷新の次男で俳優の本郷淳さん、駒ヶ根市長など30人が出席し市立博物館ロビーで行なわれました。
式後の懇談で、中城さんは平和への思いを話されたあと、金額は言いませんでしたが「買うのに、とても高価だった。」と私に言いました。この像は、世界に3体しかない?とのこと・・・是非多くの人に見てもらいたいものです。

【参考メモ】  反戦・平和・民主主義のシンボル「わだつみのこえ像」
<民主長野新聞より>
この像は「聖戦」の美名のもとで、侵略戦争にかりだされ「戦場にむなしく散り果てた多くの学徒の心理のなかで、複雑に交錯しているもだえと、なげきと、怒りをシンポライズした」(作者・本郷新)
  「わだつみ」という言葉は、1949年に発刊され大きな反響をよんだ戦没学生の手記「きけわだつみのこえ」に寄せられた京都の藤谷多喜雄氏の詩 「なげけるか、いかれるか、はだもだせるか、きけはてしなきわだつみのこえ」に由来している。
  以来、戦没学生をあらわす言葉として「わだつみ」が使われ、像も「わだつみ像」と名づけられた。作者、本郷新氏は1953年12月8日の建立除幕式で、「この像をつくるに当って、私の頭を去来した『わだつみのこえ』は戦没した学生によって語られ、叫ばれたのでありますが、その内容は多くの労働者、農民、市民をはじめ、女性によって叫ばれた、人権の尊厳、生命の価値に関する問題であるという考えでした。それで『わだつみのこえ』を具象化するには・・・一人の美しい肉体を持った青年の裸体の中にすべてを内包させようという考えに落着きました。・・・今日はじめて、太陽の下にこの像が立命館のたたかう学園の一角に建てられることの光栄は、立命館の学生をはじめ、全日本の真実に対して勇敢な全学徒とともにあります。ここからさらに深く、さらに広く平和の旗をおしすすめることができることをいのります。」
《東大当局が拒否、立命館大キャンパスに》
  第2次世界大戦が終結してまだ5年もたたない1950年に朝鮮戦争がはじまり、日本は文字どうり浮沈空母となった。国内ではレッドパージなどのファッショ的弾圧が強行され、日本再軍備が強行される。こうした時期に「わだつみの像」を作製していた。 
本郷氏は「この像をつくることの責任の重さを痛感した」という。
  こうしてつくられた『わだつみの像』は当初、東大構内に建てられる予定であったが、大学当局は「歴代の総長の像は建てているが、裸の像は建てたことがない」との理由で断ったのである。
  このように「わだつみの像」が安住の地を得ることができなかった時に、立命館大学の末川博総長が「わだつみの像」を立命館キャンパスに迎えることを表明した。当時立命館では、アメリカの直接占領下という困難な時期にもかかわらず、学生を中心に反戦平和、民族独立を求める運動が大きく広がっていた。51年12月8日に開かれた全立命戦没学生追悼集会で「立命にわだつみの像を迎え建立しよう」の決議が採択されていた。
《学生が血を流して建立された、わだつみの像》
  1953年11月11日、末川博先生をのせたオープンカーを先頭に、トラックの上に「わだつみの像」をのせて京都駅から立命館大学への市民パレードがおこなわれた。
  鴨川の橋にかかったとき、待ち伏せていた京都市警は橋の上でこれを押しとどめ、欄干をへし折って10数名の学生を鴨川にたたき落とすという弾圧を行なった。
  そして、これに抗議し京都市警に行った600人の学生に対して、200名の武装警官が襲いかかり70人の学生に負傷を負わせた。
  このように多くの学生が血を流して「わだつみの像」は建立され、この年の12月8日「わだつみの像」の前で第1回不戦のつどいが開催された。