平和のモニュメントを訪ねて(記念碑、記念物)
《第12回》 “戦没画学生慰霊美術館・無言館”
《第13回》 “知覧特攻平和会館” を訪ねて


平和モニュメント>>>

●駒ヶ根市・平和の
  森の彫像

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 2008年10月1日(水)、上田市の「戦没画学生慰霊美術館・無言館」を訪ね、それから4ヶ月後の09年1月25日(日)、鹿児島県南九州市知覧の「知覧特攻平和会館」を訪れた。2か所とも近所の友人夫婦との4人の旅で、鹿児島は2泊3日の旅でした。2つの施設から私が受けた感想は、同じレベルに2つを置いて「平和」を論じることはできない。・・・どのように書いたらよいのか・・・とまどっています。
  そこで、思ついたたままの私のコメントを記したい。
                      <09年2月20日>

12) 無言館・戦没画学生慰霊美術館

●あるところ
 ・上田市古安曾字山王山3462.JR長野新幹線上田駅下車、車で20分。
 ・上田駅より上田電鉄別所線「塩田町駅」下車徒歩30分。
 ・TEL 0268−37−1650  ・入場料・500〜1000円

1979年に開館した「信濃デッサン館」(前山寺の隣)の分館として、(歩いて10分)東の丘陵地の頂に開館した「慰霊美術館」。先の太平洋戦争で、志半ばで戦死した画学生百余名、六百余点の遺作、遺品を展示している。
   無言館の近くに「傷ついた画布のドーム」(「オリーブの読書館」)が新た  につくられ、「無言館」と「画布のドーム」は共通券として、終日自由に出入りできます。

・各施設のほぼ中心に市営の駐車場、トイレ(障害者も)があります。  
<各施設にも駐車場あり>

  口をつぐめ、眸(め)をあけよ
  見えぬものを見、きこえぬ声をきくために  
窪島誠一郎(館長)


☆訪ねる人・Aちゃん
  10月1日、前々から行って見たいと思っていた“無言館”を訪ねることができました。
  前の庭や歩道などに植えられた“ならの木”などもだいぶ大きくなり、外壁はコンクリートの打ちっぱなしで、決して小さくない十字架風の建物もあと2〜3年で包み込み、また違った雰囲気になるでしょう。
  展示物の一つ一つが、“再び戦前のような国家社会“にさせないように、自分ができることで(憲法9条をまもる、平和を守る・・活動など)精いっぱい頑張らねば!!! と、私に語りかけているようでした・・・。
  外に出てからしばらくの間、裏庭のベンチで物思いにふけりました。

私のホームページ<赤須喜久雄・憲法9条をまもる、平和を守る>2−@きけ“わだつみの声”像を訪ねて・・・に引用している「日本戦没学生の手記“きけ!わだつみの声”・の巻頭手記 「上原良司、長野県穂高町出身、慶應大学生、S20年5月11日・陸軍特別攻撃隊員として沖縄嘉手納湾の米国機動部隊に突入戦死。22歳」ぜひ参照を。

  帰宅してから、私もお世話になっている「身障協情報」(駒ヶ根市身体障害者福祉協会発行のB4の裏表)がとどけられました。

  短歌クラブが9月11日に無言館をたずねた記事がありました。紹介します。

・画学生の 心情あふるる 画と文に 胸迫り来て 蝉しぐれきく

・無言館 見学終えし 庭木立に 力籠め鳴くは 化身の蝉かと

・悲しみも 怒りも耐へし 人々の 無言の叫び 館内に満つ 
 

  ・・・休憩に立ち寄った前山寺で名物のおはぎを食べながら、眼前に広がる塩田平、その向こうには上田市街地、何回も訪れている別所温泉や北向観音が左手前にあり、まさに“絶景”。別所には、山本宣冶の記念碑があり、ここもまた訪れたいところです。
  秋本番! 上田の山には“松茸がり”の小屋がいたるところにあり、営業を始めていますが、地元では「今年はまだ1本も収穫されていない」とのことです。松だけは“なんと”私たちの地元、駒ヶ根市東伊那の農協支所で集荷されたものを毎日和田峠で受け渡しされているそうです。
 ・・・“無言館”近いうちに、また行きたい・・・ところです。



13)
知覧特攻平和会館 

●あるところ
  ・鹿児島県南九州市知覧町郡17881
  ・〒897−0302 TEL0993−83−2525
◎ 館のパンフでは、
 「この知覧特攻平和会館は、大東亜戦争末期(戦後は太平洋戦争ともいう)の沖縄決戦で、人類史上類のない爆装した飛行機もろとも肉弾となり敵艦に体当たりした陸軍特別攻撃隊員の遺影、遺品、記録など資料を収集・保存・展示して当時の真情を後世に正しく伝え世界恒久の平和に寄与するものです。 」
・知覧は、昭和20年(1945)戦況が緊迫し険悪となり、本土最南端の特攻基地となり「若き勇士が雲流るる果て、遥か逝いて帰らざる」壮途につかれた思い出深い地であります。
・沖縄特攻で散華された1036柱の隊員は、知覧を主軸に出撃しています。
・これらの霊が「とこしえに」安らかならんことを祈念して、全国から浄財を集め、昭和30年に特攻平和観音堂、昭和49年に特攻銅像、昭和50年に特攻遺品館が建立され、昭和60年度から2ヶ年で「知覧特攻平和会館」が新築されました。

☆訪ねるひと・Aちゃん  <2009年1月25日>
  AM10時、鹿児島空港は吹雪が私たちを待ち受けていました。駒ケ根を発ったのは午前4時。下界は雲ばかりでしたが、名古屋からの雲の上はまぶしいばかりだった。
  空港から1時間弱。町の中の道路には、全国から献納された燈篭が林立している。「知覧特攻平和会館」は、相当大きな建物で、遺品や戦闘機が所狭しと展示されている。特攻隊員の遺影、遺書・絶筆、爆撃戦闘機もいくつも展示されていて、豊富な資料である。
昼食を含めて“90分”の短時間ではじっくりと鑑賞できない。
  入館者はツアー客が多かったが、小学生くらいの子供も多数いた。私は、●若き特攻隊員の英霊コーナー ●隊員の遺書・絶筆 ●元特攻隊員の話の部屋は大きくて、しばらく聞いていたが、時間がないのと、言葉にアクセントがあって聞きにくいのでそこを出て、ゼロ式艦上戦闘機、陸軍四式戦闘機疾風などいくつかの部屋をみた。
  飛行機のエンジンにも興味があったので、飛行機本体から取り出して展示してあるものを見た。
館の外の庭にでた。戦闘機、三角兵舎など見て回った。
  “特攻平和会館”という名称、忌わしい“特攻”という実行された現実を、どのようにこれから生かしていったらよいのか?・・・考えさせられ、それは今もつづいている。
 この日、長崎鼻から見た開聞岳の頂上は雪で真っ白だった。翌日の桜島は、半分から上は雪が積もって真っ白であり、霧島の高原は数センチの雪の中、日本シカがいたるところから道に出きて、エサを狙っていた。
  鹿児島で一年に一度あるかないかの風景を見ることができた。
  翌日、宮崎の青島は陽気も回復し、2月1日からのキャンプ入りを前に、巨人軍の多くの選手は自主トレで宮崎に入っていた。

追記 「伊那村報」(S15,5,10発行)に、昭和15年中国北支にて戦死した,故陸軍工兵中尉○○君の「遺書」が掲載されていますので参考に。

遺書
@天皇陛下万歳 御楯と散りえたる感激誠になににかたたえん
A将校団各位 ご厚情を深謝すご発展を祈る。光栄の工兵○○○隊に天佑あれ
B同期生各位 ご厚情を深謝すご発展ご奉公を祈る。天の一角より各位の奮闘を悦ぶ我在るを知れ
Cお父上御母上 先立つ不孝申し訳なし然れども私は 大君の御為に喜びて死せり 生前の御恩を深謝す。ご両親の御長生を私は天より祈り奉る
D兄弟妹各位 ご健康ご奉公を祈る 私は法悦の境地にて死せり
E中隊兵各位  何ら尽くすことなく死するははなはだ申し訳なし 不敏なる我に致されたるご厚情心から禮を迷ふ 天より各位の武運長久を祈る
F朋友知己親戚各位 生前のご厚情を謝す ご発展を祈る
    天皇陛下万歳
       嗚呼(ああ)我は悦びて死せんとす
      ○ ○ ○ ○ 印