8、平和がみちあふれる郷土をめざして <赤須喜久雄の訴え>
≪終戦直後・お祭りに“花火”を打ち上げた・話≫ 聞き語り


●与謝野晶子・
 大山郁夫・
 鈴木貫太郎と伊那村

●「帝銀事件」と長野県 ・伊那村

●「人体実験・731部隊
 陸軍中将石井四郎」と
 長野県伊那村

●登戸・伊那村・
 帝銀事件

●高遠藩 3万3千石
 百姓一揆物語

●ある城下町の
  町長選挙・顛末記

●上井・下井
   いまむかし

●終戦直後・お祭りに“花火”を打ち上げた話

●ある女性の
  崇高な思い

●諸国行脚
  奥の細道の巻

●真珠湾攻撃 日米開
 戦の日の朝と昼と夜

●劇画「赤須きくおの
  すべて」

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(2009年7月11日)
●話す人 小池金義 さん<当時17歳>
●聞く人  = Aちゃん

 1945年(昭和20)8月15日、「15年戦争」と言われた侵略戦争は、日本の「敗北」・・・で終戦を迎えた。
  この結果を、圧倒的な多くの国民は“歓喜して迎えた。この長い戦争は、日本国民と東南アジアと世界の人々に多大な犠牲を与えるものであった。二度と戦争をしてはいけない・・・が、反省の上に立つ、戦後の、今の日本の在り方の原点である。
  長い戦時一色の体制から解き放たれた日本の国民の“行動を”、 ≪ 終戦、一ヶ月後の村祭り ≫ ・・から見てみよう。

●話す人 小池金義 さん<当時17歳>・駒ヶ根市赤穂北割在住

1、  「鎮守の森・五十鈴神社」は、 駒ヶ根市赤穂の国道西<上在にあり>おおよそ赤穂地域の半分の部落(5つの区)の人たちが氏子になっており、例大祭・お祭は今は毎年9月19日に行われている。 
  ・鎮守=その地域の住民を災害から守る神。その神様がいる森・お宮。

 このお宮で、戦争中長いこと禁止されていた“花火”をあげた。終戦日≪8月15日≫の1ヶ月後の例大祭< 昭和20年(1945)9月28日 >は、“花火”のみの打ち上げで、お練りや、演芸などはなかった。・・・・・「終戦」でいままでの国体・国の根本的な形態が180度転換するという激動の中で、その1ヶ月後のお祭りをどうするのか・・・・・?

  五十鈴神社では、@・北割1,2区、A・中、南割、B・上穂の順にお祭りの当番を決め、〔年番〕部落が責任を持って花火・演芸など行事を取り仕切っていた。

  <<< 昭和20年は北割の年番(当番)だった >>>
お練りや演芸などは練習に一定の期間が必要である。しかし一か月しかない。そこで、戦争中は禁止されていた“花火を揚げよう”・・・ということになった。
  若い経験の浅い素人が自分たちで花火をつくり、当日はその花火に点火する。
初代煙火部長は松崎氏で、それから64年たつが、昨夜(平成21年)当時の思い出を聞くと、「火をつけるときなど、とにかくおっかなかった」と話してくれた。

打ち上げた花火は
大三国・・1本。尺玉=3本。その他、打ち上げ花火もあった。また、自前のロケット花火≪竜星りゅうせい≫も打ち上げた。
・その筋(警察、GHQ/アメリカ占領軍)・・からは、何も言われなかった。・・・GHQは昭和20年9月29日に、長野、松本、伊那へ進駐してきているので、間隙をぬって花火を揚げたことになる。

●当時は、お祭りといえば男だけのお祭りだった。戦争前までは、女は(女性は)参加できなかった。


※クリックで拡大します

  << 昭和21年と22年のお祭り、年番は中・南割と上穂 >>

●花火は上がらず、お練りと演芸をやった・・と思う。

   << 昭和23年、“お祭りらしいお祭りをやった”
                           <年番・北割
 >>

【お祭りのようす】
☆花火は≪ 三国=2本(初三国と大三国)、尺玉=5本。その他打ち上げ花火も≫
・・・・・ 花火の寄付も、当時の金で \42,000円集まった。

お練りも、年番として初めてやった。
どのようにして、打ち上げに至ったのか?
小池さんが保存していた〔大宮五十鈴神社祭典事報・北割祭典青年会発行〕<企画、記録、編集兼発行人・小池金義、責任者・小原喜好>によれば、第1回総会を4月15日に行っている。
  ・当初、GHQは許可してくれなかった。
  ・7月3日の総会では、「GHQ長野軍政局は不許可」・・・の報告。
  ・8月3日の役員会「何とか見通しがつきそう
  ・8月24日決定。・・・・・ 9月28日、祭典日。花火打ち上げ。

●女子も参加したお祭りになった。
戦争前のお祭りでは、祭典の役員に女子は参加できなかった。「女が」お祭りに参加することに、賛否激論があったが、昭和23年5月1日決定の「祭典役員一覧」には、祭典副会長、補佐役、会計副、記録、獅子、会場、接待、などに名を連ねている。
(昭和23年の役員41人中、女性は12人)
  <戦後の“男女平等、民主化”など、社会に影響してきているのであろうか?>
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写真・昭和20年9月、10人の祭典青年役員

資料もよく保存してあり、話もきめ細かい。“さすが!!!小池さん” ――― だ。(A)


2、若者をはじめ、国民のエネルギーの爆発!
  ・終戦日のときには18,9歳から上の青年は、ほとんどが兵隊にとられていて地元にはいなかった。生存者はその後だんだんと復員してくるのであるが、祭りの中心はまさに若い青年たちだった。

  その意気込みを「祭典事報」の見出しから見てみよう。
若き力と団結で(主張)  ・私たちの氏神様、大宮五十鈴神社(一面トップ)
男女合同第一回の祭典、美しき成果を後輩に 
・法的根拠により計画実現へ、煙火と協力、事を処理し、実現を期し独断先行完成に邁進する。いまだ多くを語らず(警察部) 
・絶対協力、独断先行秘密厳守をモットーとし白紙の状態において進行。警察部と連絡を密にし最後まで頑張る決意であり協力を希望す(煙火部)
・女子参加50余名、82銀行前より練る。笛、太鼓、執行部絶対協力(獅子) 
・灯篭の数も増やし広告塔もつくりたい(会場)


3、ある兵士の出征当日の模様<出征=軍隊の一員として戦地へ行くこと>
  私の妻の小学生の時の恩師(牛丸五朗先生)の子息が、「わが人生は岩陰の花」という父親の遺稿集を出した。その中に「鎮守の森」について参考になるところがあるので、引用させていただく。<昭和12年(1937)10月25日の記か?>

『 教員として住居も高遠城近くへ引っ越し、妻と子供と家族団楽のうちに夕食をすませ床についた。 その日の夜半、突然、「動員下命」召集令状の電報を受け取った。子供たちの寝姿を眺める私の胸は張り裂けんばかりの思いに包まれ、そのまま夜が明けた。
  早朝、学校へ駆けつけ「動員下命」を報告。郷里(現駒ヶ根市)の実家近くへ留守家族を引っ越しさせることにきめ、「明日は入隊だ」と思う心に余裕はなく、気持はただ焦るばかりだった。
  トラックが到着して家財を積み込み、妻子とともに乗り込んだ。途中、学校の校庭で下車し、全校生徒と高遠町民から見送りを受けた。日の丸の旗の波、歓呼の声に送られながら、高遠を後にした。
  実家の近くに住居を定め、出発前夜となる一夜を明かした。 
 
翌日は、朝から実家で親戚、隣組の人々による壮行の宴が開かれた。母は立ち上がり、酒とコップを持って私の前にすわり、なみなみと酒をつぎ、「さあ、一杯飲め」と私にすすめた。私が飲み干すと「さあ、もう一杯」と言いながら注ぐのだった。
  出立の時間が来て、私を子供たちが追いかけようとした。母は私の妻に、「子供たちと家の中にいなさい」と言った。
  家の前には出征兵士を乗馬させ、駅まで送る馬が用意されていた。私がその馬に乗馬した時だった、家の中から我が子4人が飛び出してくると、馬のわきでわっと泣き出してしまった。
 
再び乗馬すると後ろを振り返らず、鎮守の森の五十鈴神社へと駆け出した。
  神社で参拝をした後、その日一緒に出征する兵士と合流、神社の境内で見送りにきた村人たちに出征兵士を代表して挨拶した。
 
そして村内から出征する兵士全員が集合する村役場に向かい、ここでも代表して挨拶した。
飯田線赤穂駅から電車に乗車、駅前広場から駅のホームまで、日の丸の旗の波でうずまる中を電車は発車し、故郷を後にした。 

   ・・・ 赤穂地域の出征兵士の壮行の模様は、@自宅にて壮行の宴、A鎮守の森・神社参拝、B役場集合、C万歳と日ノ丸で駅にて壮行。D自宅から駅までは送る馬が用意されていた。・・・ようである。


4、「伊那村報」より ・・
・<赤穂の隣村「伊那村」が発行していた>

@  「 煙火打ち揚げ廃止(禁止) 国策上県下一斉必行 
         <軍人送迎。その筋の注意により(警察・特高)
                   ★ 昭和14年8月10日号に記事がある。それ以来、
                     許可なしには打ち上げることはできなかった。

A当時の世の中の様子は・・??? ・・・ 「伊那村報・NO15」の記事より

<<< すでに、戦時体制一色である >>>

 

その1・八紘一宇とは」 ・・・村報1面で強調している。
  ●東亜における新秩序の建設。八方の遠き土地、四方八方津々浦々・・・
これを一宇、一つの屋根、一つの家屋のようにする・・・という意味。
<朝鮮征伐、日清日露の日本の皇軍の戦いは、侵略・征伐でなく八紘一宇
の実践で、満州事変後の日本の大陸政策は八紘一宇の大仕事である。>
その2・満州開拓行進曲
  1番 新しき国建たつところ、新しき民また興おこる、もゆる希望の鍬くわ先に、
極東平和の光あり、行けよ満州開拓民。
2番の最後・奮え満州開拓民 3番・進め満州開拓民 4番・伸びよ満州開拓民
その3・編集余録
  [1] 我らの覚悟
   
支那事変もすでに2か年。風雲ますます急をつげる満蒙国境線!
   
危機をはらむ日英、日米。われらの覚悟が微動だも揺らいではならない。
[2] 「
裸にて 生まれてきたのに なに不足
[3] 「
立つ見れば 女なりけり 田草とり
   
何のかんのという理屈はない。各人すべて猛働あるばかり。増収、増産
   
にはげむ涙ぐましい農村民の今日このごろの姿である。

 

5、“聞き役の感想” ・・・ Aちゃん
  “花火の話”は、東伊那郷土研究会の春の研修で上越市の「春日山城」と糸魚川市の「相馬御風記念館」へ行った時に、私の女房が小池さんから聞いてきました。話を聞きたいという私の依頼に、小池さんが、64年も前の資料をそろえて話してくれたのが、<1、「鎮守の森・五十鈴神社」> ・・・の話でした。
“さすが”・・・と感じました。終戦後64年、五十鈴神社のお祭りの経過は、戦前の話も加え、五十鈴神社としても記録にとどめておく必要があるのではないか?・・・ いま、つくづく思っているところです。
それは、過去のことだけでなく、これからの地域住民と神社の在り方の問題としても大切だと感じました。   (2009年7月12日)